情報システム学会 メールマガジン 2010.3.25 No.04-13 [8]

会員コラム
「情報システムと日本文化 上 アニミズム」

金田重郎(同志社大学大学院・工学研究科情報工学専攻/総合政策科学研究科)

概要:情報システムはそれが生まれた欧米の一神教の価値観を反映している.これに対して,日本は,先進国の中では珍しい,多神教(アニミズム)文明であり,稲作漁撈文明の国である.今日の情報システムを取り巻く問題のひとつは,1) 一神教の思想(トップダウン)を具現化した情報システムを開発するに際して,アニミズムの価値観に基づく日本社会をそのまま落とし込もうとしている,2) 労働集約的な稲作漁撈文明の方法論でソフトウェア技術に対峙しようとしている,点に起因していると考える.

1.素朴な疑問

 日本のユーザ(施主)は,情報システムの操作インタフェース画面の細かいところにこだわると言われる.開発側としては,「もっと大事なことが他にあるのではないか?」という素朴な疑問を感じつつ,「まあ,お客さんから見えるのは,そこだけなのだろう」と,仕様変更する.そして,それは,しばしばバグの原因となる.また,どこの組織でも,組織がそれぞれに,「似て非なるシステム」を作って運用している.頭では,統合が必要であると分かっているが,現実に統合しようとすると,それぞれの組織の「エゴ」が出て,なかなかに統合が難しい.そんな細かい例を持ち出さなくても,高額ERPパッケージを購入したものの,カスタマイズに膨大な費用をかけたという話はしばしば聞く.こんな状況だから,「我が社には良いパッケージがありますから」と言いながら,細かなお客様の要求をはね退け難く,つぎつぎに既存システムにパッチを当てながら,あちこちに安値応札して食いつなぎ,バックログの山を抱え,「哀しきSE」大増産に邁進しているベンダーが無いことを祈るばかりである.

2.アニミズム文明「日本」

 なぜ,日本ではこうなのだろうか?
最近,思わぬ本から,その回答への示唆を得たように感じている.以下の書籍である.

安田 喜憲 (著),「稲作漁撈文明―長江文明から弥生文化へ」,雄山閣,2009年3月
安田 喜憲 (著),「一神教の闇―アニミズムの復権 」,筑摩書房,2006年11月
上野 景文 (著),「現代日本文明論―神を呑み込んだカミガミの物語(はなし) 」,第三企画,2006年9月

安田は国際日本文化研究センター教授,環境考古学者.上野はキャリア外交官,元グァテマラ大使.全く,専門分野の異なる二人の著作である.しかし,二人とも,先進国ではユニークな存在である「アニミズム文明」としての日本に注目している.上野は,大使として勤務する中で,欧米・中国・インド等の外交官に対して,日本のことを説明することの難しさを感じてきた.そして,その原因は,

(1) 米国の「一神教のメンタリティ」と我々の「(多神教)アニミズムのメンタリティ」との相異にある.そして,多くの日本人がそのことに気づいていないことが,現状への理解を妨げている.
(2) 日本は,「和」に「洋」を接ぎ木する難しさに揺れ続けてきた.そして,この「和」と「洋」の「アイデンティティの不安定性」こそが,日本文明を分かりにくくしている.

とする.
 安田の主張はさらに過激である.安田は,日本の稲作漁撈文明のルーツを中国・長江周辺(現在の上海周辺)に繁栄していた稲作漁撈文明「長江文明」に求める.4200年前,気候変動に襲われた今の漢民族のルーツにあたる北方の麦作狩猟民族は,平和に暮らしていた長江文明を襲った.かろうじて逃げ延びた一部はボートピープルとなって日本の弥生文明の礎を作ったとする.稲作漁撈文明の典型は,日本の田園の姿である.猫の額のような田んぼや畑に人間の労働力を集約し,丹誠込めて土地の生産性を最大化する.足らない部分は,里山で薪を集めたり,海や川で魚をとる.まさに,労働集約型のサステナブル文明である.人々は平和に自然と共存する.自然のあらゆるものに「カミ」が宿り,絶対的な「カミ」は存在しない.多神教,即ち,アニミズムの世界であり,「となりのトトロ」の世界である.
 しかし,欧米・中国の麦作狩猟文明は異なる.そこでの価値観は,野山を開墾して牧草を植え,家畜を育て,肉やチーズの形で自然を収奪する.このアプローチは「エコ」の点から言えば,効率が悪い.しかし,「幸福」になるためには,できるだけ広い土地を手に入れて,それを山羊や羊の牧場にする必要がある.人間は,動物の監視をしていればよい.そこには,「征服し尽くす」一神教の世界がある.中国で長江文明を襲った漢民族も,また,狩猟民族であった.今でも,中国の写真を見ると,土が露出して荒れ果てた山々,天気が良いのに濁った茶色い水が渦巻く河.そして,多くの山羊や羊の姿が,農村の姿として映し出される.

3.一神教の現人神:情報システム

 一神教について,考えてみたい.そもそも,キリスト教から見て,日本は「変な国」である.カトリック教団,プロテスタント教団の区別無く,時間と手間をかけて布教した筈なのに,人口の1%〜2%程度のキリスト教信者しかいない.お隣の韓国は30%,一説には60%がキリスト教徒であるという(韓国は,自治体業務のIT化が極めて進んだ国として有名である.これに対して,E-Japanとか言ってきたのにもかかわらず,さっぱり使われていない我が国の行政システムのことは,「仕切り」でも大きなニュースとなっている).キリスト教の三位一体の主(一神教)は,日本についに根付くことはなかった.しかし,世界の先進国,とりわけ,コンピュータを生み,育てて来た国々は,ことごとく,一神教の国である.中国はキリスト教ではないが,マルクス主義自体が西欧から生まれたものであり,絶対的な社会モデルですべてを説明しつくそうとする姿勢は,一神教そのものである.日本だけがアニミズム文明であり,コンピュータを育てて来たすべての欧米諸国はキリスト教国である.
 主祷文を見てみたい.

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
(マタイによる福音書,カトリック,プロテスタント共通口語訳)

言うまでもない.「みこころ」が地に行われるトップダウンの形こそ,欧米の神が望むものである.哲学者の木田元はおもしろいことを言っている.図1,図2は,木田元の説明を図式化したものである(木田元「反哲学入門」新潮社,2007年12月を参考にして著者が描いたものである).

図1 西洋の世界観
図1 西洋の世界観
図2 日本の世界
図2 日本の世界

 西洋の哲学では,上記の主祷文にあるように,自分たちが住んでいる世界を,外から眺める(図1).トップダウンそのものである.そして,すべて「論理」によって説明しようとしたことは周知の通りである.しかし,日本の世界観には,このような「外から見る」視点はない.図2に示すように,観察者は世界と不可分である.カミガミが沢山いるなかで,自分一人が,「カミ」になれるはずもない.
 前置きが長くなった.本題に入りたい.ここで,問題にしたいのは,情報システムは欧米の「一神教」の文化のもとで構築されたものであるにもかかわらず,我々日本人は,それをアニミズムの価値観で受け止めており,そして,それをはっきりと認識していないところに不幸の始まりがあるのではないか?と言う点である.まさに,上野の指摘そのものである.
 図1の西洋哲学の思想は,トップダウン・アプローチそのものである.正に,Waterfall Modelである.トップダウンの機能分割は,それぞれの構成要素が独立して詳細化できるとの考え方に基づいており,コンパイラの文脈自由文法も,そのような還元論的な世界観の反映であろう.つまり,安田や上野の文明論に立てば,一神教の文化であるコンピュータ(情報システム)と,我々の日々の暮らしは,合わないものである.熟練したソフトウェア技術者が,しばしば,標準化やシステム統合ができない一般社会を批判的に言うが,それは,もしかすると,ソフトウェア技術者が,一神教の目で社会を眺めてしまっているのかもしれない.一神教文化であるコンピュータ(情報システム)を間に挟んで,アニミズムのソフトウェア技術者と,同じくアニミズムの施主(ユーザ)が対峙しているのが,我が国のソフトウェア開発となる(図3参照).

図3.一神教(ソフトウェア)を挟んで対峙する施主・SE
図3.一神教(ソフトウェア)を挟んで対峙する施主・SE

図3から予測される問題は,

(1) ソフトウェアは一神教の産物なので,ターゲットとする目的さえ達成できればよいシロモノであるが,施主は,そこに,いろいろのカミガミを期待して,どうでも良い要求をつぎつぎと追加しがちである.
(2) システムを作っているSEの側も,実は,アニミズムの信奉者なので,結局,施主の側に立って,統一のない機能をソフトウェアに組み込みがちである.ただし,SE(=職人)は,その昔,小さな田んぼを労働集約的に精魂詰めて耕していたころを理想としているから,「やっつけ仕事」のソフトウェアには強い不満を持っている.

となる.しかし,冷静に考えてみれば,操作画面をいくらシェープアップしても,情報システムの価値が大きく向上することはない.むしろ,余分な工数が発生して,納期が遅れる原因にもなりかねない.また,SEの側も,不満があるが,実際に,では「理想とするソフトウェア」がどのようなものが具体的なイメージ,方針は持てないでいることも多いのではないか.もともと,ひとつの明確な目標(「みこころ」)を持たない民族であるため,ソフトウェアの目標から入ってゆくことが不得手だからである.結果的に,似て非なるシステムが多数できても,あまり気にならないのかもしれない.システムが沢山あるのは,まさに,多神教の具現化であろう.意外に,その状況は「ほっとする」のかもしれない.

図4 オフショア時代のソフトウェア開発
図4 オフショア時代のソフトウェア開発

 この状況は,オフショア時代にはどうなるのか.図4は,オフショア開発時代のソフトウェア開発の構図である.一般に,「オフショア開発になっても,上流工程は日本人しかできないので,そこをきっちりと押さえれば良い」と考えられがちである.しかし,この図4を見ると,すこし,ちがった印象を受ける.以下に列挙する.

(1) 施主がアニミズム的な価値観にとらわれていると,「あれやこれや」という要求,たとえば,細かい機能追加や画面の修正が従来通り頻発する.一方,詳細設計をするのは,一神教の人たちである.施主の要求を理解できない部分が増加し,結果的に,SEは,施主と一神教の文化の間に立たされる.施主の不満はSEに向けられる.
(2) 従来,日本ではパッケージ化が中々できなかったが,この形では一神教の文化の中のみでパッケージ化が容易となる.日本人よりパッケージ化は進む.結果は,海外のERPパッケージのように,日本文化には合わないものとなるが,結局それを使わされる.そうであるなら,施主は,海外のパッケージを買えばよいので,逆に,日本人SEの存在意義が徐々に見えなくなる.つまり,「気配り,すりあわせSE」は徐々に要らなくなる.

  もとより,以上の図3,図4の分析は,日本を多神教として,欧米や中国を一神教とモデル化した議論の中で行ったものであり,フィールドリサーチや定量的な研究を行った結果ではない.しかし,ソフトウェアを一神教とみて,日本時のメンタリティをアニミズムとして見たとき,いままで,ソフトウェア開発で持っていた「違和感」が何となく,解消されたように感じるのは著者ひとりだろうか.

4.ソウトウェア技術者の意識

 我が国の文化をアニミズムとみる場合,ひとつ気になることがある.それは若者の意識である.学生さんたちと接していて,しばしば聞く言葉に,「ICT化はほどほどが良い」がある.最初は,これを聞いて「カチン」と来た.「君らは,情報システムで飯を食ってゆく人たちだろう!そんなことでは飯の食いはぐれだ!」.しかし,この「ほどほどが良い」という主張に全面的に反論することが難しい.なぜなら,自分の心の中のどこかで,同じ声がするからである.「ほどほど」はアニミズム文明の大きな特徴であろう.絶対的な「カミ」がいないアニミズムでは,もともと,極端な方向は避ける.木を切り倒して牧草ばかりにするようなことはできない.
 しかし,情報システムの技術は「必然の先取り」といった性格を持っている.必然の先取りの世界では,ある技術は,早晩,だれかが開発する.問題は,それをいかに早く「思いつくか」が勝負となる.部品材料の研究であれば,実験をやっているうちに,あるいは思わぬ現象に出会うこともあるのかもしれない.しかし,方式・システムでは,頭で考えないとアイデアは出てこない.特に最近は,要素技術としての「からくり」の研究が終焉に近づき,要素技術それぞれの可能性と限界を知った上で,それを生かしうるアプリケーションを探している.画像処理技術やデータマイニング技術などでもその傾向は強い.
 このような「必然の先取り」において,「ほどほど」論は役に立つのだろうか?あまり役には立つまい.「ほどほど」などと言っている内に,「食い尽くす文明」である欧米諸国や中国に負けてしまう.キリスト教化が進んでいる韓国にも勝てないかもしれない.我々は,アニミズム文明の中での「ほどほど」論にすぎないことを自覚し,「食い尽くす文明」がどう出るかを予測しつつ,「ほどほど」を生かした,別の新しい情報システムの「価値」を探し求めるしか生きる道はない.「ほどほど論」は危険であると思う.それがアニミズムのバックボーンを持っているだけに根深い問題である.しかし,少なくとも,自分が世界でもユニークな「アニミズム文明」の枠の中で思考していることは自覚する必要がある.「最近の学生はやる気がない」というような議論に堕してしまっては意味がない.「社会学の社会学」(藤原書店,1991年4月)の中でピエール・ブルデューが言ったように,無意識に自分を支配しているものを意識化することにより,それから自由になることを期待して.

5.おわりに

 コンピュータ,あるいは,ソフトウェア開発手法は,欧米にその立脚点を持つ.従って,実は,米国の文化,あるいは,米国の人たちの認識哲学(モデル)が,その方法論の中に入り込んでいることは当たり前と言えば当たり前のことである.しかし,安田や上野の本を紐解いて感じるのは,ソフトウェア技術者が,従来,そのことにあまりにも無頓着であったのではないかという思いである.
 つまり,オブジェクト指向だろうと,責務駆動設計であろうと,その背後にある思想を理解することなく,「ものつくり立国」的に,「手に覚えさせる」という方法論で対応してきたように思えてならない.それは,正しい方向なのであろうか.そうは思えない.この「手に覚えさせる」という方法論自体が,小さな畑や田んぼをシェープアップしていたころのアニミズム的な方法論のように感じられる.田んぼなら,手間をかければ収量は増えただろう.しかし,いくら画面を耕しても,収穫量は増えない.そのことを,もう一度,発注側(特に施主及び情報システムのユーザ)を含めて,ソフトウェア技術者は考えてみる必要があるように思われる.
 次回は,米国文化と日本文化の違いの他の例として,オブジェクト指向の背後にある米国のプラグマティズム哲学について考えてみたい.