情報システム学会 メールマガジン 2007.9.25 No.02-06 [6]

情報システム学会 「年金問題」 検討について  柴田亮介

 7月20日 学会有志によって「年金問題」を取り上げての真剣な議論がありました。議論はあちらへこちらへと飛び交い,最初の検討会としては実に実りある内容でした。以下に,議論内容をベースに私の意見も加えながら整理してみました。私の思い込みや知識不足など足りないところがあると思いますが,学会が「年金問題に一石を投ずる」ために皆様の議論の参考になれば幸いです。
 年金問題は,情報システム学会にとってまたとないチャンスです。情報システムがなくては年金支給ができない,情報システムに信頼性がなければ多くの国民を不安に落ち込ませてしまうからです。これまで,このように国民が情報システムを身近な存在であると意識し,国民のすべてが関心をもつことはありませんでした。年金納入記録を保証するコンピュータデータベースに欠陥があるようだ,というだけでなく,その運用システム,システムを統括する組織にも常識では考えられない事態が発生していたのです。
 厚生労働省,社会保険庁,地方の保険事務所は,年金を税金のようなものだと考え違いをしていたのではないでしょうか。つまり,すべての国民は義務として年金を納付すべきである,さらに年金納付は進んで自分から申告すべきものである,と。「そして,時期が来れば,必ず相応の年金額を年金加入者に支給しなければならない」という認識が極めて希薄であったといえるでしょう。なぜなら,税金の場合,納付された税金は集められて,国の政治,地方行政のために使われるので,「後から,国民への給付する」という行動は一切ありません。年金を税金と同じように考えると,このたびの年金問題の杜撰さがよく見えてきます。こうしたびっくりするような認識の違いもさることながら,年金問題は官公庁・自治体の情報システム受発注の仕組み,言い換えればIT(インフォメーションテクノロジー)産業おける商取引の実態にも大きな原因があると思われます。

 官公庁・自治体業務を支える「大規模情報システム」の受発注には,多くの欠陥があります。その第一は,発注側に情報システムの専門家,プロがいないという不思議です。この場合,専門家とは,業務に詳しいこと,システムにも詳しいこと,の両面を含んでいます。官公庁では,幹部候補生は2,3年ごとの人事異動があり業務にも,システムにも詳しい専門家として育成することはできません。幹部候補生は,ジェネラリストとして各省庁を経験することが優先されるからです。幹部が現場の判断や考え方を正しく吸収し意思決定を行なうのでなければ,的確な業務はできません。よきに計らえでは,杜撰な業務と杜撰な情報システムができても不思議ではありません。発注側に専門家がいないのですから,結局,業務システムおよび情報システムの設計,開発,運用は,受注者側主導となるのは当然です。受注者側主導であれば,受注者側優先の業務,利益獲得になるのは火を見るよりも明らかです。年金の場合は,NTTデータが情報システム開発のすべての要件に携わらざるを得ない状況でした。当初の設計,開発業務をNTTデータ側で負担していますので,社会保険庁は開発されたシステムを利用するという立場をとっています。これは後々入ってくる毎年の利用料と莫大な運用費を当てにしているのです。また,コンピュータの運用作業自体もNTTデータが担当し,膨大なデータ件数になるので運用費も膨大になります。当初の設計,開発費の持ち出しがあっても,その後半永久的に使用量,運用費が入ってくるので,NTTデータは十分に元が取れるという仕組みです。なおかつ,NTTデータは開発当時にはすでに償却を終えようとしているコンピュータを使って年金業務の設計,開発,運用を行っています。これもまた大きな利益を生み出しますが,一方でシステムパフォーマンス,漢字採用ができないなど不都合な問題点が多く指摘できます。この点も,発注者側に専門家がいないこと,その結果受注者側主導になった,その結果でありましょう。

 この度,年金を加入者に正確に支給するために,情報システムの変更が加えられました。この際に,新しくソフト開発会社が参入する機会はありませんでした。NTTデータの独占する業務になってしまいました。なぜなら,基本システム(コンピュータプログラム)の著作権をNTTデータが握っているからです。この結果,NTTデータが年金システムを支配していて,社会保険庁は逆にそれに従わなければならないというのが現状です。こうした現象は,官公庁の大規模システム開発プロジェクトには,よくあることです。国民の大切な年金や税金という財産が特定の事業体につぎ込まれているのです。まさに,情報システムの開発,運用という名を借りた官と民の癒着そのものではないでしょうか。このような受発注の仕組みが,日本のIT産業の健全な発展を妨げています。組織が大規模であるがゆえに,官公庁とのパイプが太いという理由で,大規模な情報システムの開発プロジェクトが受注できる,そのようなNTTデータの存在に多くのソフト開発会社,コンピュータメーカーの担当者が泣かされてきました。21世紀のIT産業の発展のために,NTTデータを分割し本来あるべき民間事業体の姿へと変えていかねばなりません。このために,多くの活発な議論と提言をしようではありませんか。

 社会保険庁は,「責任を全うする」という社会では当たり前の考え方,意識が欠如しています。国民皆年金という方針を全うするのであれば,国民一人一人の年金納付状況を正確に記録しておかなければなりません。もし,情報・データが欠落していれば,これを補い正確な情報・データにするのが社会保険庁の仕事です。なぜなら,年金は必ず時期が来れば納付状況に応じて一人一人に支給しなければならないからです。社会保険庁の管理職は国民皆年金の方針に沿って現場の仕事が正しく行われているか,を把握し,的確な指示と判断を下さなければなりません。実態は全く逆で現データである文書,帳票を破棄するように現場に促したというではありませんか。常識では,コンピュータインプットが終了したからといって,現データを直ちに破棄するというような愚は決して行いません。後から,インプットの間違い修正や情報・データの確認が必要になってくることがあるからです。十分な期間が経過してはじめて源データを破棄することができるのであって,それまでは当然保管の義務があります。あまつさえ,当時の社会保険庁長官は,「今のうちに年金を使ってしまえ,支給はずっと後のことだから。」といって,社会保険庁の組織下に多くの関係団体をつくり,日本全国に保養所施設グリーンピアを建設しました。関係団体は,社会保険庁の幹部の天下り先であり,国民財産である年金を湯水のように浪費したのであります。そのお金はもう戻ってこないのです。監督官庁である厚生労働省はわれ関せず,事態を傍観するだけでほかに何もせず,当人たちは大過なく社会保険庁の用意した天下り先に次々に転じていきました。幹部がこういう事態ですから,現場はやりたい放題になるのも避けられなかったことでしょう。当時の労働組合は自分たちの都合さえよければを優先して,労使協定を結んでいます。この内容も世間の常識からははるかにずれた内容でした。組合の力が圧倒的に強く長官ですら何も手を出せなかったということです。当然,年金の利用者である国民のことは,何も考えてこなかったということです。つまり,全組織を挙げて年金を食い物にしてきたのです。実に,不可思議な組織が存在していました。

 さて,NTTデータは,年金作業システムを設計,開発し,運用をしてきました。社会保険庁からの指示は全くありませんから,NTTデータ主導ですべてが行われました。NTTデータは,自分本位のシステムができればよかったのです。そこには,利用者である国民の姿を見ようとする態度は全くありませんでした。ただ,単に「当社は社会保険庁の発注に従っているので問題はない」が優先したのです。通常,システムを運用していくと,システムやデータの不備が発見されてその都度システムに修正が施されます。システムを使い込んで利用することで,システム精度やパフォーマンスが向上していくのが普通です。年金システムの場合,窓口で社会保険庁側の規則を盾に取り利用者の意向を拒絶することが多く,せっかくのシステムチェックの機会を自ら放棄していました。また,定期的にシステム監査が必要であったにもかかわらず,これも放棄していました。どこからもチェックされない状態では,決してよくなることはありません。年金システムは,その最悪の典型例でしょう。

 今回の議論から,すべての国民,厚生労働省,社会保険庁,各地域の保険事務所,NTTデータなどソフトメーカー各社に対して,私は以下の3項目を提言したいと思います。また,今後早急に情報システム学会が「年金問題」を正面から取り組み,社会に提言,警告できるように期待しています。

<1>IT産業における情報システム受発注の健全化

 年金問題における受発注の実態は,到底看過することはできません。官庁,自治体,団体などの公的機関での情報システム開発の実態は,年金問題と同じ問題を含んでいます。地方自治体での情報システム開発でも発注者側にシステムの専門家が不在で,受注者側に的確な指示ができず結局大手のメーカーに丸投げするという,全く似たような事例がどこにもあるようです。これまで多くのソフト開発会社,コンピュータメーカーが,不公平な受発注にどれだけ泣いてきたでしょうか。機会均等,公平に受注できる,共通の標準,基準を持たねばなりません。それも,国際的に通用する基準が必要です。基準づくりに際して,IT産業の監督官庁には一歩も二歩も引き下がっていてもらわなければなりません,骨抜きにされてしまいますから。学会,大学・研究所,経団連,産業界(特にIT産業だけでなく日本を代表する企業)の参加を得ることによって,健全なシステム受発注の標準,基準づくりに向けてスタートできると確信します。
 組織的には,官公庁内に監査庁を新しく設置することも検討するとよいでしょう。現在の公的業務は,情報システムの働きなくしては十分に機能しません。これまで情報システムの存在は,片隅に追いやられていたと思います。情報システムを効果的に効率的に活用することが,本来業務を円滑に遂行できる必須条件となっています。このために,定期的にシステム監査を行う必要があります。ちょうど金融面で,公的な会計監査が定例になっているよう
にです。このような公的制度とは別に,情報システムドッグを提案します。人が人間ドッグで定期健診するように,情報システムも今健康か,病んでいないかを定期的に診断する仕組みです。いまや,治療から予防の時代へ入っています。自社のチェックは欠かせませんが,第三者による診断チェックの結果は,その組織体の価値を決定すると思われます。

<2>専門家による受発注交渉

 現場とシステムに詳しい専門家による受発注交渉が欠かせません。大切な国民の財産を適切に活用するためにも,企業が汗をかいて獲得した利益を次の事業に活かすためにも,優れた専門家が受発注業務交渉のテーブルで向き合うことです。「現場については知りません,分かりません,システムのことは分かりますが」は駄目です。現場の仕事が優先し,システムはこれをサポートするという根本的な認識ができていなければ,どんなシステムを開発しても現実からは遊離します。その結果,開発を終了してからの運用面で大きな障害を抱えることになります。業務の遅滞,人員増やコスト増を招きます。専門家による受発注交渉は当たり前のことですが,それができていない現実を直視すべきです。このための人材育成,技術・技能の向上とわざの伝承が欠かせません。
 とくに,官公庁・自治体では,自組織内でシステムの専門家を育成することを忘れていました。企業が,情報システムを企業戦略の重要な武器と位置づけてきたのは,激変する市場競争に勝ち抜くためでもありました。ところが,官公庁・自治体は環境変化に眼をつぶって自分の組織内ばかりに目を向けていたに違いありません。発注側として適切なシステム開発の指示をおこなうことは,まさに官公庁・自治体の仕事そのものです。専門家を養成できずに,今日の役所業務をまっとうできるはずはありません。組織的な対策が必要です。

<3>利用者の姿を明確に捉えてのシステム設計,開発,運用を

 システムが存在する理由は,利用者満足です。利用者あっての,システムです。ともすれば,発注者側の事情が優先し,受注者側の能力不足,感性の不足によって,利用者の姿を忘れがちです。つまり,受発注双方の思惑が優先して利用者の姿が見えなくなってしまうので,決して利用者のためにはなりません。本末転倒です。システムの開発によって「利用者のどんな問題を解決するのか」,設計段階で十分に解明します。設計当初に設定された解決方針は,運用に至るまで脈々と生きて個々の作業の判断基準になります。最初の問題設定で間違えたばかりに,開発,運用でひどい目にあった,という話は山のようにあります。「どのように問題設定をどうするか,システムで解決すべきことはなにか」は,利用者の姿をどこまで読み切れるか,にかかっているといえるでしょう。

 時間が経過して驚くべき事実がわかりました。年金問題は,年金横領という異常事態を含んでいました。納入した億単位の年金を各窓口の担当者が盗んで自分の懐に入れていたという事実です。あきれてモノがいえません。一人の人間がすべての入金業務をおこなうやり方が,年金横領を産み出したといえましょう。入金業務を二人以上で確認,チェックするという基本動作が業務システムに組み入れられていなかったのです。お金を扱う業務は,確認の連続です。人は,次第に業務に慣れてお金に麻痺していきます。年金横領は勿論担当者の良識を問うところから始まりますが,システム開発者はあらゆる可能性を検討しつつ業務システムを組み立てていかねばなりません。利用者のことを考えつつ,システムに関わる人にも配慮するという,まさに人間を真正面に据えてシステムを開発・運用することが求められている,とい
うことです。
 年金問題は,情報システム学会が標榜する「人間中心の情報システム」について改めて考えさせられる大きな問題です。学会は,年金問題を教訓の事例として「健全な情報システムとは何か」を,社会に働きかける役割があると思います。