情報システム学会 メールマガジン 2013.1.1 No.07-10 [14]

連載 情報システムの本質に迫る

第67回 情報システム学会のフロンティア〜2013年〜

芳賀 正憲

 情報システム学会を主導されてきた浦昭二先生が、昨年(2012年)8月、逝去されました。浦先生の最も大きな業績は、HIS研究会と情報システム学会の設立を通じて、「人間中心の情報システム学」を提唱されたことにあると考えられます。これは情報システムの世界に、コペルニクス的転回と呼べるほどのパラダイム・シフトをもたらすものでした。それまでの情報システム学の体系は、明らかにコンピュータ中心に組み立てられてきていたからです。
 しかし、コペルニクスの発表から古典力学の完成まで多大の時間を要したように、人間中心の情報システム学を「学」として体系化するのは、決して容易なことではありません。ここに情報システム学会として最も重点をおくべきフロンティアが広がっていると考えられます。

 実は人間中心の情報システム学以前に、「情報システム学」そのものが学界の中で十分な位置づけを与えられていないと感じられることがあります。
 1つは、一昨年の大震災の後、30もの学会がコーディネータのもとに結集し、「東日本大震災の総合対応に関する学協会連絡会」ができて活動していたのですが、情報システム学会は、30の中に入ってなかったことです。災害対応で、情報システムの役割が決定的に重要であるのは、言うまでもないことです。
 あと1つは、昨年8月開催された原発に関する日本学術会議のフォーラムで、プログラムの最後に東大、産総研、学術会議等のトップを歴任された吉川弘之氏が「科学者の役割」について講演をされ、その中で、たくさんの専門職業名、学問名を一覧図で示されたのですが、専門職業名として、芸術家や作家、演劇家まで挙げられているのに、現在職業人口としておびただしい数になっているシステムエンジニアの名称はなく、また学問名として言語学や美学、文学まで列挙されているのに、情報学も情報システム学もなかったことです。
 民間でも、情報システムの意義に関して経営者の認識が乏しいということがよく言われますが、学界の総帥もコーディネータも、情報学や情報システム学について、念頭になかった可能性があります。

 「情報システム学」でさえこのような状態ですから、まして「人間中心の情報システム学」となると、当事者の間でさえ、その概念の浸透は進んでいません。
 2007年、情報システム専門分野の教育カリキュラムJ07-IS策定のベースとなる情報システムの知識体系(ISBOK)が公開されました。注目すべきは、その第1章第1節が「コンピュータアーキテクチャ」になっていることです。何よりもまず、コンピュータから出発しているのです。
 HIS研究会が発足したのは1980年代であり、情報システム学会の設立が2005年です。その上での2007年ですから、新パラダイムの普及にいかに時間がかかるかが分かります。

 このようなことが起きる要因として、第1に、わが国では「情報」という言葉が、欧米に比べてもはるかにプラスチック・ワード化していて、広範囲に用いられてはいるが、歴史的に形成された本来の意味、あるいは本質的な意味や意義が見失われている(というより、人間にとってそのもつ意味が最初から認識されていない)ことが挙げられます。本来form(形)であるはずの「情報」について、専門の学者でさえ「情報には形がない」と公言することが多いのは、その典型的な顕れです。
 第2の要因として、情報システムの基本的な概念(本質モデル)が明確化されず、関係者の間でさえ共通認識がまるでできていないことが挙げられます。他の学問、例えば電磁気学で、オームの法則のような概念法則が中等教育で教えられ常識化しているのとは大きなちがいです。情報と情報システムに関しては、一般の人々はもちろん、専門家でさえ、基本的なところから考えることのできない状態におかれているのです。

 これらの問題を克服するため、情報システム学会では設立以来、情報と情報システムの基本的な概念の確立に努めてきました。それらを新しい情報システム学体系化のベースにできるところまで明らかにできたことは、7年有余の学会活動の大きな成果と言えます。
 人間にとって「情報」の本来の意味は、上述したようにform(形)です。このことは、情報の原語がinformationであることからも明白です。
 歴史的にformは、形相とイデアという2つの見方でとらえられてきました。formを外界の事物に内在し、素材に一定の形を与えて存在物として成立させる構成原理と見なすのが、アリストテレスの形相です。また、人間の理性によって認識され、脳の中に形成された各個物の本質と見なすのが、プラトンのイデアです。
 わが国でも今まで識者の方々が、情報とは何かについて、説明をされてきています。この中で、社会学者の吉田民人氏、経営学者の藤本隆宏氏は、ともに、情報がアリストテレスの形相であるという見解を示されています。また、哲学者の今道友信氏は、情報システム学会における講演の中で、情報はイデアであり、したがって精神の目で見た形、すなわち観念(概念)であると説明されました。情報学者・西垣通氏の生命情報→社会情報という分類は、概念の形成過程を、プラトン的に脳の中のプロセスとしてとらえたものと見てよいでしょう。
 このように「情報」については、さまざまな説明がなされているように見えますが、form(形)という観点で、統一的に理解することが可能です。

 人間中心の情報システムの本質モデルとその発展の歴史は、すでにこのメルマガでも述べたことがありますが、次のように要約することができます。
 人間が目的をもって何かをなそうとするとき、その情報行動が多段階のPDCAサイクルになることは、京大工学部の人見勝人教授により提唱されました。PDCAサイクルは仮説実証法と等価なプロセスであり、数万年におよぶ人類の技術と科学の発展が、直観的であれ論理的であれ、仮説実証法のくり返しの適用によってなされてきたことは、東工大名誉教授の市川惇信氏が明らかにされています。
 一方、社会学者のルーマン氏によると、社会システムは3段階にわたって分化を続けてきました。(1)環節的分化、(2)成層的分化、(3)機能的分化です。今日の社会では、高度に分化した機能単位に、各部分システムが多段階のPDCAサイクルを回しながら、それぞれの目的の実現をめざしています。ただし、機能的分化社会であっても、環節的分化と成層的分化構造の一定の継承がなされていることは言うまでもありません。
 機能的分化の構造に関しては、ソフトウェア工学の観点から、(1)閉構造であること、(2)凝集度が高く連結度が低いこと、という2つの制約条件が課せられます。社会システムはオートポイエティック・システムですから、一般的に(1)の条件は満たされていると考えられますが、(2)の条件は重要で、逸脱したときはシステムが暴走したり、破たんに至ることがあり、それは現実社会でその通りに起きています。

 情報と情報システムの基本的な概念をベースにして、昨年秋から情報システム学会内で、新しい情報システム学体系化の議論が活発になってきました。学会のロードマップ会議での決定を受け、新情報システム学体系調査研究委員会では、学会創立10周年に当たる2015年を目標に、新しい体系を社会に発信できるよう活動を続けています。
 概念、歴史、理論、実践の方法論という学問の4要件を満たした新しい情報システム学体系の確立は、学界の中で学問として認知を受けるためだけでなく、情報システム産業のアイデンティティを確立(nKから脱却)し、大学の専門・一般教育と高校の教科「情報」を真に意味のあるものにするためにも必須のことです。情報社会においては、情報システム学の基礎はリベラルアーツであり、リベラルアーツを専門化したものが情報システム学であると見なされます。体系の確立に、学会の総力を挙げて取り組む必要があります。

 情報システム学と哲学の関連については、一昨年1月からオブジェクトデザイン研究所・河合昭男氏により、「オブジェクト指向と哲学」の連載が続けられています。
 本稿でも述べた「情報」の基本概念、イデアと形相について、河合氏は早くも第2回と第3回でとり上げられました。
 第2回ではまた、イデア論とオブジェクト指向の関係が、ソフトウェアを仕事にしている人達の間で常識なのか、UML を提唱したG.ブーチに河合氏が直接尋ねられたエピソードを紹介されています。「それは当然そうだ」と言われ、西欧ではギリシャ哲学がコンピュータ以前のリテラシーになっているのだと感じられたとのことでした。これは、わが国における情報概念の浸透という観点から、大変に大きな問題です。わが国では、情報システム関係の学者でさえ、イデア論などを理解しないで、研究や教育に従事しているからです。
 昨年は、学習パターン、パターン言語について、7回にわたって連載されています。組織や個人の経験や試行錯誤を通して蓄積されてきた暗黙知を、新たな形式知として創出するパターン言語は、人間中心の情報システムのきわめて優れた実現モデルとして注目されます。

 プロジェクトの成否の要となるプロジェクト管理について、PMBOKは画期的な体系ですが、さらにプロダクトプロセスそのものや、複雑性も管理対象として考慮すべきことは、このメルマガでも述べてきました。それに加えて、第一線のプロジェクトマネージャである蒼海憲治氏からは、「プロマネの現場から」の連載を通じて、直面する課題の解決から得られた優れた実践知の発信を続けて頂いています。
 従来プロジェクト管理の体系化では、業務面のプロセス管理を、WBS等を通じていかに精緻化するかということに腐心してきましたが、蒼海氏の連載から、優れたマネージャは、リーダやメンバーの使命感やモチベーションなど、人間的側面、心のプロセス管理に関しても、業務以上に配慮し「パターン言語」化して、力を注いでいることが分かります。多くのマネージャにとってベンチマークとすべき進め方と思われます。
 また蒼海氏は、現実のプロジェクトにおける厳しい経験をもとに、リカバリ・マネジメントの体系を確立され、メルマガと懇話会で発表されました。
 PMBOKは計画主導の体系であり、それ自体妥当な考え方ですが、現実に必ず発生する、計画との大小のかい離をいかに解決するのかについては、プロセスの整理が不十分です。その意味でリカバリ・マネジメントに関する蒼海氏の今回の提案は、プロジェクト管理の体系に大きな飛躍をもたらし、その実効性を高めたと考えられます。

 「社会システムの分析」は、従来情報システム関係者の取り組みが、企業や工場、機器の情報システム化に偏重していたのに対して、今まで手つかずで、しかも問題山積の、(企業より次元を1つ高めた)社会レベルのソリューションをめざす、情報システム学会にとって重要なフロンティアです。ルーマン氏の社会システム理論の参照により、「社会システムの分析」に関して、「新情報システム学の体系化」と統一的に議論が可能な見通しが立ったのは、昨年の大きな進捗でした。基礎情報学においても、ルーマン氏の論考は、キー概念の1つとしてとり入れられています。
 2011年、川野喜一常務理事を主査として発足した「情報とシステムの視点からみた組織と社会研究会」では昨年、NTTデータ経営研究所・村瀬博昭氏、富士通・佐竹雄一氏から、それぞれ「地域支援型農業と情報システムの活用」、「農業クラウドへの取組み」のテーマで講演を頂きました。情報システムを活かして、地域支援による小規模農業維持・発展の可能性にアプローチし、また、充実した内容の農業クラウドにより大規模農業のさらなる活性化をめざす、課題山積の日本農業の将来に大きな希望を与える講演でした(学会Webサイト・研究会のページ参照)。

 「社会システムの分析」に対する情報システム学の貢献として期待されるシミュレーションモデルの構築では、2012年全国大会のベストプレゼンテーション賞に選ばれた、慶應大学・八島敬暁氏等による「人間の行動シミュレーションのためのパーソナリティと有限の処理能力を有するエージェントモデルの構築」が特筆されます。
 この研究では、人間が状況を認知し行動に至るまでの過程が、協調性、勤勉性、知性など5つの属性をもつ人間のパーソナリティによって影響を受け、また、状況認知によって起きる不安・恐怖などの感情によって、認知資源が消費され認知力や判断力の低下がもたらされるという、連関したプロセスとしてモデル化されています。その上で、爆発事故を想定した地下鉄での避難誘導実験の再現シミュレーションが行われています。
 人間中心の情報システム学の観点から、きわめて注目すべき研究であり、将来的には、人間性や国民性に対する経済制度の適否評価のような大規模な社会システム分析が可能にならないか、その進展が期待されます。

 情報システム学会のミッションともいうべき「社会への提言」では、昨年、次の2件の提言を発表しました(学会Webサイト・「社会への提言など」のページ参照)。
(1) アレキシサイミア(失感情症)への対応についての提言
〜アレキシサイミアを認識して、IT技術者の貴重な人材を守ろう〜
(2) 岐路に立つ組込みソフトウェア開発現場
〜企業経営者や事業責任者への警鐘〜

 新年、早急に情報システム学会が提言に取り組むべきテーマとして、公的機関の情報システム開発の問題があると思われます。
 昨年1月、6年がかりで開発を進めてきた特許庁のシステム開発が中止されました。会計検査院は、55億円の国費が無駄になったと指摘しています。日経コンピュータはこの問題を分析し、根本要因は、技術力の低いT社を選んでしまった、特許庁の発注能力の低さにあると結論づけています。
 しかし今回の問題で留意すべき点は、第1に、T社の技術力の低さが、業者選定時に評価した結果から、プロジェクト開始時すでに明らかだったことです。第2には、特許庁に大規模情報システムのプロジェクト管理能力が乏しいことが自覚されており、そのため開発費に対して実に34%という高額の予算で、A社にプロジェクト管理支援業務が発注されていたことです。
 プロジェクト開始時、技術力の低さなどリスクが存在していた場合、まずリスクの低減を図るのがプロジェクト管理の常道です。したがって、A社のプロジェクト管理支援業務が具体的にどのように行なわれたかというところに、今回の問題を解明する大きなカギがあると考えられます。短絡的に一挙に6年前の発注プロセスのみに要因を帰すべきではありません。
 特許庁と対照的なのが、2012年全国大会で発表され、特別賞を受賞された神奈川県庁・岩崎和隆氏の情報システム調達業務の進め方です。
 岩崎氏は、公的機関の情報システム開発に失敗が多いという危機意識から、発注プロセスの改善に努められ、プロジェクト開始後は、専門家の助言も得てプロジェクト管理を的確に推進し、大震災の影響でタイトなスケジュールの中で、見事に計画通りの稼働を実現されました。この進め方は、今後公的機関の情報システム調達業務のベンチマークになり得ると評価されます。
 それと同時に、公的機関の情報システム開発におけるプロジェクト管理の支援者には、管理の常道を順守し、発注者にも開発者にも順守させる、断固とした姿勢が望まれます。

 「新情報システム学の体系化」「社会システムの分析」「社会への提言」という、いずれも社会への貢献度の大きいフロンティアを、新年も強力に切り開いていきましょう。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
 皆様からも、ご意見を頂ければ幸いです。