情報システム学会 メールマガジン 2011.3.25 No.05-12 [6]

連載 プロマネの現場から
第36回 『天地明察』・・渋川春海のプロジェクト・マネジメント術

蒼海憲治(大手SI企業・金融系プロジェクトマネージャ)

 渋谷の宮益坂に金王八幡という神社があります。この神社の鳥居をくぐると境内に向かって右側に宝物庫があります。この宝物庫の中に、江戸時代に奉納された算額の絵馬があります。現在、展示されているのは3点のみですが、色とりどりの円が描かれた算額は見ているだけでも楽しくなります。いまから350年前に、この場所で、この算額絵馬を見ていたのが、冲方丁(うぶかたとう)さんが書かれた小説『天地明察』の主人公、渋川春海でした。
 『天地明察』は、天地について明察する、つまり、日食や月食の時期を当てるという意味であり、そのために江戸前期に行われた日本人による初めての改暦にちなみます。そして、主人公の渋川春海は、実に22年の歳月をかけて、この改暦を成し遂げた立役者でした。
 渋川春海は、江戸幕府で将軍や幕閣を前に囲碁を打つ安井家の一世安井算哲の長男として、寛永16年(1639)、京都・四条室町に生まれます。13歳の時、父・算哲が亡くなったため、二世算哲を名乗りますが、安井家は養子の算知が継ぎ、算哲自身は、保井姓を名乗り、御城碁の棋士として出仕します。
 御城碁を務める囲碁の棋士は、毎年、春から夏の間は職から開放されます。そのため、春海は、年の半分は、故郷の京都に戻り、京都の知識人から多くを学びました。
 和算家の池田昌意(まさおき)、医者の岡野井玄貞から、暦学と天文学を教授されます。
 山崎闇斎からは儒学・朱子学、垂下神道を学び、さらに、暦の元締めである安倍家の安倍泰福(土御門泰福)からは、安倍神道を学びました。
 そのため、京都の文化人、宮中の貴族の間で、春海は、博識多才の人として名声が高まります。
 また、棋士は碁を打つだけでなく、幕府の高官や大名らに碁を教えることも役目の一つであったため、多くの要人と知り合いになります。水戸黄門こと徳川光圀や会津藩主の保科正之らにも、博学な才能とその人柄により深く信頼されるようになります。

 元来、多芸であった春海は、御城碁の務めだけでは飽き足りません。幕閣の一人であった酒井忠清らの推薦により、万治元年(1658)、21歳の春海は、山陰・山陽、四国にかけて各地の北極高度、つまり緯度を測定する旅にでます。これは、日本人による初めての科学的緯度測定であったといいます。

 古来より、正確な暦を作るには、正しい1年の長さ(平均太陽年)や、月の満ち欠けの周期(朔望月)が必要となります。そのため、暦法は、天文現象をより精密に予報できるよう、時代を追って改良されてきました。
 中国では、最初の暦法である大初暦が、紀元前104年に生まれて以来、最後の太陽太陰暦である、時憲暦(1645−1911)まで、49回も改暦されてきています。一方、日本では、清和天皇の貞観4年(862)に初めて、宣明暦が採用されたのですが、この宣明暦は、中国の徐昴が作ったもので、822年から70年間使われたものでした。日本は、その間に、遣唐使を廃止したことにより、それ以降は、中国の新たな暦法を取り入れることができなくなっていました。
 この宣明暦は、一年の長さは、365.2446日とするものでした。そのため、実際の観測に照らし合わせると、わずかに一年より長くなります。その誤差は、百年間でおよそ0.24日。800年間では、実に2日の誤差を生じ、朔や望・・日月蝕の予報もたびたび誤り、支障をきたしている状況でした。

 当時、改暦の大本命は、授時暦というものでした。授時暦とは、中国暦の一つで、元の許衡・王恂・郭守敬が、5年の歳月を費やして天測を行い、暦学、算術、器械工学の知識を駆使して編纂した暦であり、最も正確な暦と思われていました。この授時暦を参考にしつつ、日本独自の暦をいかにつくるか、が課題でした。

 ところで、改暦という事業は、一見すると、天文学等の技術を駆使すれば解明し、実現できる技術的な問題と思えてしまいます。しかし、改暦の影響は、非常に大きなものであり、その決定には様々な勢力のことを意識する必要がありました。
 まず、宗教統制の側面として、幕府が改暦を行えば、天皇から「観象授時」の権限を奪うことになります。古来、天意を読み解くことは、王の職務であると同時に、宗教的権威そのものでした。また、日を決する、陰陽思想における方角を決することは、陰陽師の働きを完全に統制することを意味しました。
 政治統制の側面としては、公文書における日付の重要性を決めることになります。
 文化統制の側面としては、日付は、政治ばかりでなく、文化も決めることにつながります。
 経済統制の側面、頒暦(カレンダー)による利益は、ざっと70万石にのぼりました。目ざとい出版業者たちは、暦法を題材にした美人画などの関連商品を開発したといいます。
 そのため、改暦事業には、公家と幕府を始めとする武家双方だけでなく、世の算術家、神道家、仏教勢力、儒者、陰陽師たちに加え、民衆もこの勝負に熱狂しました。

 春海は、寛文7年(1667)、山崎闇斎、安藤有益、島田貞継らとともに、一回目の改暦に挑戦し、朝廷に改暦を請願するも「不吉」として却下されます。

 延宝元年(1673)、二回目の改暦として、授時暦を新しい日本の暦にすべく幕府に意見書を提出します。しかし、延宝三年の日蝕において、現行の宣明暦の予報が当たり、授時暦の予報が外れたため、改暦の機運は一気にしぼんでしまいます。

 その後、春海は、昼は太陽の観測、夜は月・星の測定を何年間にもわたって行い、授時暦を基に、改良を加えた暦を大和暦とした新暦を作り、天和3年(1683)、三回目の改暦請願を幕府にします。宣明暦が月蝕を外したことを受け、いよいよ改暦は待ったなしの状況となり、幕府は、土御門泰福に命じ、春海も加え、改暦を決定することとします。
 ところが、この際は、授時暦は、日本を侵略しようとした元(元寇)の学者の作った暦だから採用すべきでないといった土御門の主張により、いったん明の大統暦に決まりかけます。
 ここで春海は、幕府側・朝廷側双方の有力者に働きかけ、大統暦と大和暦の優劣を比較するよう、実に四度目の請願を行います。
 京都の土御門の観測所で、月、惑星の位置を観測した結果、春海の大和暦の方が、天の運行により合っていることが示されます。そしてついに、貞享元年(1684)10月、大和暦による改暦が宣下され、新暦は、貞享暦と呼ばれることとなりました。実に、823年ぶりの改暦で、かつ、日本独自の暦の採用が実現しました。
 この改暦の結果、暦を編纂する実権は、京都の土御門家から、江戸幕府に移る画期的な出来事でした。春海は、碁所の役職は解かれ、初代、天文方となります。

 ところで、この渋川春海、本業の囲碁では、同時代の本因坊道策に負け続け、算学では、同い年の天才、関孝和に及びませんでした。しかし、春海は、彼らにはできない改暦事業を実現することができたのでした。

 その理由はどこにあったのでしょうか?

(1)多才な知識

 暦を作るためには、暦法だけではなく、天文学や算学の知識が必要になります。そして、当時は陰陽師が暦を編纂していたことから、彼らと渡り合うためには、神道や儒教、朱子学の知識が必要でした。春海は、京都の知識人から多くを学んでいました。

(2)天文観測技術・測量技術

 23歳の時、北極出地の旅、日本全国の緯度測定の旅に、プロジェクトのメンバーとして参画します。北極出地の観測隊は、隊長が建部昌明、副隊長が伊藤重孝でした。建部は、算術及び天文暦学に長じた緻密な観測計画を立案、実行する優秀なプロジェクト・マネージャであり、伊藤は、御典医でありながら 医術の他に、算術と占術に優れたサブプロマネでした。春海はこの二人の補佐役として、五畿七道を巡り歩いて観測しました。
 建部の大願は、「天の星々を余さず球儀にて詳らかにする」渾天儀(こんてんぎ)を作りたいというものであり、伊藤の大願は、「分野」という、星の一つ一つを国土に当てはめる中国の占星思想である、この分野を日本全土に当てはめたい、という大望を持っていました。いずれも、日本全国の大まかな地図製作と精確無比な天文観測が大前提となるものでした。
 春海は、天文観測技術・測量技術を学ぶとともに、二人の夢も受け継いだと、小説では語られています。

(3)ベテランの援け

 20年がかりの一大プロジェクトを支えたのは、28歳のプロマネの春海より、専門分野においては知見も経験もあるベテランのプロジェクト・メンバーたちでした。実際、春海の学問の先生の多くが、彼のもとに集まりました。
 神道の師であった山崎闇斎、算術の安藤有益、さらにこの安藤有益の算術の師であった島田貞継など、皆、20〜30歳以上も年上の大ベテランでした。

(4)不屈の精神

 改暦事業の困難さ・大変さは、開始前からわかっていました。しかし。わかっていたとはいえ、22年間に4回の改暦請願を行うことになりました。3回の却下の理由の中には、「不吉だ」「元寇をイメージさせる」など、理屈ではない政治的な思惑に翻弄される場面が多々ありました。それでも、あきらめず、観測データを採取・分析し続け、独自の暦の有効性を証明しようと努力し続けました。

(5)広範な人脈と政治力

 春海は、京都に住む御城碁の棋士というポジションを最大限に活かしました。
 京都では、京都の文化人、宮中の貴族の間で、博識多才の人として認められます。一方、江戸では、棋士として、幕府の高官や大名らに碁を教えることも役目の一つであったため、多くの要人を知り合いになります。水戸黄門こと徳川光圀や会津藩主の保科正之らにも、博学な才能とその人柄により深く信頼されるようになります。
 この幕府・朝廷双方の有力者への働きかけにより、起死回生となった四度目の請願を認めてもらい、技術勝負に持ち込むことができたのでした。

(6)タイムキーパーの存在

 小説の中では、「えん」さんという、のちに春海の妻となる女性が、絶妙の役割を果たします。ややともすると周りに合わせていろいろなことに顔を出すため、月日を費やしてしまう春海の性格を見抜いて、春海の決めた目標と期限を常に思い出させるのでした。この温かい叱咤激励に、春海がいかに励まされたことか、と想像してしまいます。実際、夫婦仲の良さは有名で、春海とえんは、春海77歳の同じ日に亡くなるほどでした。

 ところで、冒頭紹介した渋川春海が算額絵馬を見るために渋谷に現れたのは、実は江戸城の登城前、出勤前でした。往復10キロ余りを、駕籠代を奮発してやってきたのでした。

≪その日、春海は登城の途中、寄り道をした。
 寄り道のために、けっこう頑張った。≫

 冲方丁さんが、この書き出しで始められたのは、春海の人生そのものが大きな寄り道だったから、といわれています。しかし、この寄り道があったからこそ、囲碁の棋士でありながら、囲碁を通しての人脈を駆使し、神道や算術、暦法、測量等を身につけた結果、800年越しの改暦という大事業ができたのでした。

<参考文献>
冲方丁『天地明察』角川書店
『冲方丁公式読本』 洋泉社
中村士『江戸の天文学者 星空を翔ける ‐幕府天文方、渋川春海から伊能忠敬まで‐』技術評論社
渋川春海「天文瓊統」 『近世科学思想・下 日本思想大系(63)』所収