情報システム学会 メールマガジン 2011.3.25 No.05-12 [3]

連載 オブジェクト指向と哲学
第3回 アリストテレス - 形相と質料

(有)オブジェクトデザイン研究所 東京国際大学非常勤講師 河合 昭男
object■odl.co.jp

 哲学書は難解な専門用語で一般読者が立ち入れない世界を構築しています。それでも今回のテーマ「形相(eidos)」と「質料(hyle)」という日常聞きなれない用語は、アリストテレスの考え方を理解するためにどうしても必要なキーワードです。今回はアリストテレスの存在論−ものとは何か、を前回に引き続きソフィーの世界を参照しながら考えて見たいと思います。
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 ソフィーは封筒から紙切れを取り出した。そこにはこう書いてあった。
 鶏と「鶏」というイデアと、どっちが先か? [1]P131

 アリストテレスは20年間もプラトンに師事したのですが、それにも拘わらずイデア論には賛成できませんでした。イデアが初めに存在し、イデアこそが本質的存在であり、地上に存在する形あるものはその影に過ぎない、というのがイデア論の考え方です。
 しかしこのイデアなるものは目に見える形で取り出すことができないものであるという点に、アリストテレスは納得がいきません。むしろ「五感で認識できるものが先にあって、それらを基にして人間が頭の中で概念として創りだしたものをイデアと呼んでいるにすぎない、というのが自然な考え方である」というのがアリストテレスの考え方です。

 この議論は、オブジェクト指向分析における「クラスが先かオブジェクトが先か」という議論と似ています。クラス図を描く前に問題領域からクラスを抽出することが必要ですが、クラスは抽象概念なので、人間には具体的なものであるオブジェクトのほうが理解しやすいと言えます。問題領域から具体的オブジェクトを抽出し、それらをグルーピングしてクラスを見つけていくのがわかりやすい方法です。

形相と質料
 「質料」はものを作っている素材、「形相」はそのものをそのものにしている固有の性質のことだ [1]P144

 ものは「形相+質料」でできていると考えます。質料は素材という物理的なもので、五感で感じ取れるものです。形相はイデアと似ています。違いは、イデアはそれだけで存在しますが形相はそれだけでは存在できません。常に質料と一体になっているというのがアリストテレスです。
 これは、オブジェクトは「操作+属性」が一体化したものであるのと似ています。考え方として、操作は形相に、属性は質料に対応します。

 ちなみに英語では形相(eidos)はform、質料(hyle)はsubstanceという訳があります[2]。

 きみの前で一羽の鶏がはばたいているとするよ、ソフィー。鶏の形相とはまさにこの、はばたくことだ。それからコケコッコと鳴くこと、卵を産むことだ。鶏の形相は鶏という種の固有の性質、言いかえれば鶏はどんなことをするか、ということだ。

 「形相」をオブジェクト指向にあてはめると、この節からは特に振る舞いとして現れているので、クラスに定義された操作のようです。鶏というオブジェクトは「はばたく」、「鳴く」、「卵を産む」といった操作を持っています。

 鶏が死んだら、そしてコケコッコと鳴かなくなったら、その鶏の形相も存在することをやめてしまう。あとに残るのは鶏の質料、つまり素材だけだ。これはもう鶏ではない。

 「鶏が先か、卵が先か」−卵、ひよこ、鶏(親鳥)の違いはどのように考えればよいでしょうか。「はばたく」、「鳴く」、「卵を産む」は親鳥の振る舞いであり、卵には当然できないし、ひよこなら鳴き方はピヨピヨです。
 これはオブジェクト指向なら、状態変化と捉えることができます。鶏というオブジェクトはまず卵の状態で生成され、ひよこの状態に変化し、親鳥に成長するというオブジェクトのライフサイクルです。

 アリストテレスは、自然界の変化に関心をよせたのだった。質料にはかならず特定の形相をとる可能性がある。質料は内に秘めた可能性を現実のものにしたがっている、と言っていい。自然界のあらゆる変化は、アリストテレスによれば、質料が可能性から現実性に変化することだ、ということになる。
 ・・・
 卵には鷄になる可能性がひそんでいる。・・・でも鷄の卵からガチョウはかえらない。・・・あるものの形相とは、それが何になるかという可能性と、何にしかならないという限定の両方をあらわしているのだ [1]P145

 このアリストテレスの考え方を説明するのに丁度よい例が2つあります。

夢十夜
 漱石の『夢十夜』[4]の第六夜に次のような話があります。

 運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるという評判だから、散歩ながら行ってみると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた [4]P24

 運慶が自在に鑿(のみ)を振るって仁王を彫っているところを見物人が取り囲んで、あまりの見事さに見とれています。

 「能くああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」と言った [4]P27

 彫刻とはそんなものなのかと思い、自分も家に帰って薪にするつもりの手頃な木を選んで彫り始めますが、仁王は出てきません。次々と試してみますが、当然ながら仁王は出てきません。
 運慶にとっては木の中に埋もれている仁王も他の人には取り出すことはできません。プラトンのイデア論なら、イデア界に仁王のイデアが先に存在し、運慶にはそのイデアが見える、あるいは遠い過去に見た記憶を思い起こすわけです。彼は、それを型に入れてケーキのように焼き上げる代わりに、鑿と槌で感覚世界に生み出します。
 イデアを認めないアリストテレスは、そうではなく始めからその木に仁王になる可能性が備わっていたと考えます。

彫刻家のたとえ話
 『ソフィーの世界』のアリストテレスの章にも、こんなたとえ話があります。

 昔、彫刻家が大きな花崗岩にとりくんでいた。彫刻家はくる日もくる日もこのただの石くれをたたいたり削ったりしていたんだが、ある日、小さな男の子がやってきた。「なにしてるの?」男の子がたずねた。「待っているのさ」と彫刻家は答えた。何日かして、また男の子がやってきた。彫刻家は花崗岩から一頭のみごとな馬を掘り出していた。男の子は、はっと息をのんで馬にみとれた。それから彫刻家にたずねた。「この馬がこの石に入っていたって、どうしてわかったの?」[1]P145

 この話、夢十夜とそっくりですね。アリストテレスは「この花崗岩には馬になる可能性が宿っていた」つまり「自然界のすべてのものは特定の形相を実現する可能性を内に秘めている」と考えたのです。
 この花崗岩という質料はただの石という状態と馬という状態を内包しているわけです。状態を変化させるために「たたいたり削ったり」してイベントを起こしていると考えることができます。
 運慶の仁王も同じ解釈ができそうです。「仁王になる可能性が宿っている木」を見つければよいわけです。しかしその状態を変化させるのはやはり夢に現れた運慶でないとできないかもしれませんね。

可能態と現実態
 素材としての木には仁王になる可能性があれば家具になる可能性もあります。アリストテレスは、元の木の状態を可能態(dynamisディナミス)、仁王や家具になった状態を現実態(energeiaエネルゲイア)と呼びました。後の例では素材としての花崗岩が可能態で馬の彫刻が現実態です。
 木という質料と仁王という形相を合体させると感覚世界に仁王の彫刻が生まれます。花崗岩という質料に馬という形相を合体させると感覚世界に馬の彫刻が生まれます。

目的因
 なぜ雨は降るのか? [1]P131

 雨が降るのは、海の水が蒸発して、雲が濃くなって雨になるからに決まっている・・・と、ソフィーはそんなこと小学生でも知っている、と考えます。

 まず気温が下がった時、水蒸気(雲)がちょうどそこにあったから、というのが「質料因」、つまり素材があるという原因だ。つぎに蒸気が冷やされたから、というのが「作用因」、作用がおよんだというという原因だ。そして最後に「形相因」、地上にザアザアとふりそそぐことが水の形相あるいは本性なのだから、雨は降る。つまり形相という原因だ。
 ・・・
 雨が降るのは、植物や動物が成長するのに雨水が必要だからだ、と。アリストテレスはこれを「目的因」と考えた。 [1]P147

 雨にも使命があるというのがアリストテレスの世界観です。
 このように、ものが存在するには必ず4つの原因があります。

4つの原因
 可能態がなぜ現実態になるのでしょうか?まず第一に、それは誰かがそうしたからだとアリストテレスは考えました。仁王は運慶が、馬の彫刻は彫刻家がそうしたからです。この運慶や彫刻家は、彼らが制作の対象としたものが存在するための始動因*です。
 (* 作用因[1]という用語は[3]に従い始動因としました)
 では次に、彼らは何故そんなことをしたのでしょうか?それは何らかの目的があってそうした筈です。誰かに頼まれたのか、どこかに飾るのかなど...そのものが存在する目的因です。
 以上のように、ものが存在するには形相因・質料因・始動因・目的因の4つの原因が必要であるとアリストテレスは考えました。
 ちなみに英語版[2]ではそれぞれformal cause, material cause, efficient cause, final causeと訳されています。

存在のwhat & why
 この4原因説は様々な場面で応用ができる考え方です。
 what「それは何か」の説明が形相因+質料因です。
 why「それは何故存在するか」の説明が始動因+目的因です。

 例えばある部屋に椅子があったとします。
 what? それは何か?
 形相因:人が座るための道具
 質料因:木(あるいはプラスチック、金属など)

 why? 何故そこにそれがあるのか?
 始動因:誰かが買ってきたから。あるいは誰かが作ったから。
 目的因:会議あるいは食事などで人が座るため。
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 次回のテーマは「分類と分解」です。人は何かを認識するときまず分類し、次に単純なものに分解して理解しようとします。引き続き「ソフィーの世界」を参照しながらオブジェクト指向の視点で考えてみたいと思います。
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[1] ヨースタイン・ゴルデル【著】、須田朗【監修】、池田香代子【訳】、「ソフィーの世界」、NHK出版、1995
[2] Jostein Gaarder、SOPHIE’S WORLD、Berkley books、1996
[3] アリストテレス【著】、出隆【訳】、「形而上学」、岩波文庫、1959
[4] 夏目漱石、「夢十夜」、岩波文庫

ODL ObjectDesignLaboratory,Inc. Akio Kawai