情報システム学会 メールマガジン 2010.1.25 No.05-10 [12]

連載 情報システムの本質に迫る
第44回 幻想の 「坂の上の雲」

芳賀 正憲

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、2千万部以上売れた超ベストセラーですが、歴史観や日清・日露戦争の記述の仕方に多くの問題点が指摘されていて、NHKのテレビドラマ化に際しては、歴史学者や市民団体などから抗議の声が寄せられました。
 司馬氏ご自身、生前「この作品は、映画化やテレビドラマ化はしてほしくない」と語っていたのですが、NHKが現在の著作権者に積極的に許可を求めてドラマ化してしまったのです。
 司馬氏が映像化を望まなかったのは「ミリタリズムを鼓吹しているように誤解される恐れがあるから」とご自身語っているのですが、作品の連載が開始されたのが1968年のことであり、司馬氏はその後、韓国の学者などと多くの交流を重ねられ、また日清・日露戦争の経緯について知見も深めて、自らのまちがいや記述の不備に気づき、上記の談話に至ったのではないかと、歴史学者などは推察しています。

 「坂の上の雲」を論じている書籍は多数出ていますが、本稿では、金沢大学工学部機能機械工学科システム基礎講座で解析学を教えられている半沢英一博士の著作「雲の先の修羅」(『坂の上の雲』批判)(東信堂)をご紹介します。歴史的事実関係の側面はもちろん、他の優れた戦争文学との比較や日本人のアイデンティティとの関連など、きわめて多角的な視点から厳密・詳細に問題点の論証がなされていて、一読に値します。

 「坂の上の雲」は、開国したばかりの「少年の国」日本が、大国清やロシアの圧力に抗して、苦悩しながらも成長し、果敢に世界に雄飛していった姿を、秋山好古・真之という地方出身の軍人兄弟を主人公に、明るくスケールの大きい群像劇として描きだしたものです。だからこそNHKは、この物語が、混迷の中に生きる現代の日本人に「勇気と示唆を与えるもの」としてドラマ化したのです。
 しかし司馬遼太郎は、物語を「明るく」するため、多くの重要な歴史的事実の隠ぺいや曲筆を行なっており、いかに現在日本が混迷しているからといって、このような事実誤認の物語から、日本がこれから進むべき道の示唆を得ていいのかというのが、「雲の先の修羅」を書かれた半沢氏の問題意識でした。(世の中には、物語なのだから、示唆が得られるなら事実と離れてよいではないかという意見があるのですが、司馬氏ご自身は「この作品は、事実に拘束されることが100%に近く、私は、小説にならないテーマを選んだ」旨、述べておられます。)

 「坂の上の雲」における歴史の改ざんとして、半沢氏が最も問題としているのは、第1に、日清戦争が帝国主義による植民地獲得戦争ではないとしていることであり、第2に、日露戦争を日本の祖国防衛戦争としていることです。
 第1に関して、司馬氏は作品の中で、実に珍妙な論理を展開しています。すなわち、日清戦争を帝国主義による植民地獲得戦争あるいは侵略戦争と定義することは、日本を悪玉と見なすことである。一方、日本が自国の安全という立場から朝鮮の中立を保つため、暴慢な清国を排除したと考えると、それは日本を善玉と見なすことになる。このように、悪玉か善玉かという両極端でしかとらえられないのは、今の歴史科学の欠陥である。他の科学で、水素は悪玉、酸素は善玉ということはないではないか。そこでこの物語では、善でも悪でもなく、人類の歴史における日本という国家の成長の度あいの問題としてのみ、日清戦争を考えていく、としているのです。
 要するに司馬氏は、日清戦争を帝国主義による植民地獲得戦争と認めたくなかったのです。それを認めると、「少年の国」の明るい成長の物語という趣旨に沿わなくなるためです。このため司馬氏は、朝鮮の侵略に関わる多くの重要な歴史的事実を無視してしまっています。
 これに対して半沢氏は、「帝国主義」「植民地」「侵略」は国語辞書(「広辞苑」)に意味が明記されており、日清戦争がどうであったかは、歴史的事実と辞書の意味を突き合わせれば容易に判断できることである。司馬氏が「善玉」「悪玉」論に逃げ込んだのは、帝国主義による戦争であることの否定ができなかったからではないかと批判をされています。

 第2の日露戦争に関して司馬氏は、「世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をした」「日本側の立場は、追いつめられた者が、生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であった」として、「祖国防衛戦争」であると断定しています。
 しかし日露戦争は、ヨーロッパの大国・英国と日英同盟を結んだ上で、西欧文明の産物である大砲や軍艦を用い、西欧から資金を借りて戦ったのであり、ヨーロッパ文明と対決したとは言えない。また主戦場は中国の東北部であり、バルチック艦隊も日本への侵攻をめざしていなかったことから、祖国防衛戦争とはとても言えないと半沢氏は反論しています。
 実は司馬氏自身も作品の別の箇所で、「日本には米以外の産物がなく、資源もない。こういう列島をとったところでひきあうものではない(むろん、ロシアの他の大官も、日本まで獲ろうとおもっている者は一人もいなかったが)。」と、危機が迫っていなかったことを述べています。それにもかかわらず司馬氏は、日露戦争が祖国防衛戦争であることを主張するため、それに反する多くの歴史的事実を作品中で無視しています。

 司馬氏は無視していますが、しかし、1875年日本が、鎖国中の朝鮮首都付近の江華島で交戦ののち、艦隊の示威のもとに開国を迫り不平等条約を結ばせ権益を確保して以降、日本軍による朝鮮王宮の占領、下関条約による清国権益の排除、朝鮮王妃の暗殺、日露戦争中の首都の制圧と財務・外交権への干渉、土地の収奪、ポーツマス条約によるロシア権益の排除、民衆の激しい抵抗とその弾圧等々を経て、1910年の韓国併合に至る歴史的事実は、日清・日露の戦争が、清国・ロシアと日本の間の、朝鮮(韓国)に対する覇権をめぐる争いであったことを明確に示しています。

 これらについて司馬氏が触れなかったのは、「坂の上の雲」の明るいイメージをこわさないため、意識的に隠ぺいされたことがまず考えられますが、司馬氏の歴史に関する学識の意外の狭さから、もともと認識のない項目があったのではないかと半沢氏は推測しています。
 例えば、司馬氏は日本海海戦について次のような記述をしています。「たしかにこの海戦がアジア人に自信をあたえたことは事実であったが、しかしアジア人たちは即座には反応しなかった。中国人も朝鮮人も、・・・この海戦の速報については鈍感であり、これによってアジア人であることの自信を即座にもち、ただちに反応を示したというほどまでには民族的自覚が成長していなかった。」
 前述したように、当時韓国は首都が制圧され、土地は収奪、財務・外交権も奪われつつあったのですから、日本の完勝を韓国の人たちが喜び自信をもつわけがないのです。司馬氏がこのようなコメントをしたことから、彼が日露戦争下の韓国侵略について知識をもっていなかったのではないかと半沢氏は推測しています。
 また、インド独立運動の闘士だったネルー首相が、日露戦争のあと日本が直ちに韓国の領有を進めたことに失望、「日本は帝国としての政策を遂行するにあたって、まったく恥を知らなかった」と記した有名な著作についても、司馬氏は読んでいない可能性が指摘されています。ネルー氏は、民族的自覚が成長していたからこそ、日本の勝利に敏感に否定的に反応したのです。

 日本の、朝鮮を始めとするアジアへの侵攻については、当時は帝国主義の時代であり、「他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力をもち、帝国主義国の仲間入りするか、その二通りの道しかなかった」(「坂の上の雲」)という考え方が、比較的広くあります。
 このことについては、メルマガでも2010年10月号で坂本龍馬に言及し、もし彼が明治期に生きていたら近隣諸国をステイクホルダとした場合も、(覇権をめざすのではなく)よく話し合い、協力して新体制をつくり、通商を拡大してともに経済力を高めることをめざしたにちがいないと述べたことがあります。二通りの道だけではなく、3つ以上の選択肢がありうるということです。
 実際に明治8年、征韓論が盛んな中で田山正中という人が、「朝鮮を占領した日本は、まわりが全部敵という状態になる」など、きわめて系統的に反対の論陣を張っていたことが、歴史学者の中塚明・奈良女子大学名誉教授によって指摘されています。
 また半沢氏は、岩倉使節団の「米欧回覧実記」により、日本はその進路として帝国主義的大国路線だけでなく小国路線も可能性として検討していたことが分かることを紹介されています。
 メルマガの2009年10月号では、後に首相になった石橋湛山氏の「植民地経営には経済的利得がない上、侵略に成功しても、欧米列強と衝突し民衆の抵抗を受ける。経済的にも道義的にも、すべての植民地を放棄すべきだ」という、1921年の所論を紹介しました。半沢氏もまた、帝国主義に抵抗した日本人の一人として石橋湛山氏を取り上げ、所論の一節を示されています。
 スウェーデンが、旧ソ連を周辺にもち、またナチスに包囲されていた大戦時も含めて、19世紀初頭から今日まで190年にわたり中立と平和を保ち続けていることを、メルマガの2010年10月号で述べました。半沢氏は、アジアでタイ(シャム)が、19世紀から今日まで「他国の植民地」にもならず「帝国主義国の仲間入り」もしていないことを挙げられています。

 上記のことはいずれも、司馬氏の「二通りの道しかない」という主張が、必ずしも正しくないことを示しています。司馬氏の説にもとづくと、日本は他国の植民地になりたくない以上、残された唯一の坂道を上っていったのです。そして、明るく、ひたむきで、けなげな努力の結果、白い雲の輝く頂きに到着したのです。司馬氏に言わせれば、そのあと日本人は民族的に痴呆化し、転落の道を歩みました。
 しかし実は3つ以上の選択肢があり、江華島事件に始まる朝鮮侵略の行き着く先に、列強との対立と民衆の抵抗、アジア全体の筆舌に尽くしがたい惨禍と1945年の自国の壊滅が待っていたことを考えると、日本は最初から、黒雲のかかる、まちがった坂を駆け上っていったのだと言わざるを得ません。

 半沢氏は著書の中で、歴史的な戦争を描いた3つの長編と「坂の上の雲」を対比しています。
 陳舜臣「江は流れず―小説日清戦争」は、副題のとおり日清戦争を描いた作品ですが、日清間の朝鮮の権益をめぐる政争の記述に全体の4分の3を費やしている点、および日本軍の朝鮮王宮占領や旅順虐殺のような、司馬氏が触れなかった歴史の暗部が詳しく書かれている点、「坂の上の雲」と大きく異なります。また、当時の日本の先進性も認める複眼的な視点がとられているのも、この作品の優れたところです。
 ヘロドトスの「歴史」には、ペルシャ戦争が描かれていますが、理性によって民族を超えた真理に至ることを確信していたギリシャ文明の精神が発揮され、いくつかの集団の主張がちがうときは各主張を併記するという、複眼的な歴史の見方が著述全体で一貫している点が、結果的に独善的な空想歴史小説に終わってしまった「坂の上の雲」と次元を異にします。
 トルストイ「戦争と平和」は、ロシアのナポレオンに対する文字通り祖国防衛戦争を描いた作品ですが、第1の特徴は、単純な民族ナショナリズムの英雄物語とせず、ナポレオンを破った将軍クトーゾフも神話化していないことです。この点、東郷平八郎を、事実に反して最初からバルチック艦隊が対馬海峡を通過することを洞察していたかのように神話化して描いた「坂の上の雲」と対比されます。また「戦争と平和」では、戦争が美化されることなく、空しさが語られている点、植民地獲得戦争を明るく祖国防衛戦争として描いた司馬氏と観点を異にします。
 実は司馬氏は「坂の上の雲」の中で、クリミヤ戦争に従軍したトルストイに言及し、「トルストイはこの戦争体験を通じて国家を越えた人類の課題に到達しようとし・・・」と述べているのです。トルストイは実際にこの課題に到達し、「戦争と平和」を完成させました。半沢氏は、司馬氏も「国家を越えた人類の課題」を求めて日露戦争を描いていたら、作家として真の栄光を得ることができただろうと、「坂の上の雲」が空想歴史小説になったことを惜しんでいます。

 「坂の上の雲」がたくさんの人に愛読され、鳴り物入りでテレビドラマ化された要因について、半沢氏は、日本人のアイデンティティとの関連に着目されています。無謀な15年戦争への突入と戦争犯罪、その悲惨な結末から、日本人はアイデンティティの根拠を日本の近過去におくことができなくなりました。このとき司馬氏が「坂の上の雲」で、アジア・太平洋戦争に至る日本は愚かだったが、明治維新から日露戦争勝利までの、純粋で明るく、前向きの努力はすばらしかったという歴史観を打ち出したため、多くの「アイデンティティ難民」がとびついたのです。
 しかし、このアイデンティティは事実を誤認した空想物語による独善的なものであり、外国人との心からの交流を不可能にします。半沢氏は、日本人は「坂の上の雲」によって鼓舞されるようなアイデンティティをきっぱりと捨て、理性と人類同胞の精神にもとづき、国境を越えられるようなアイデンティティをもつべきであり、石橋湛山、内村鑑三、(植民地の人たちの擁護に尽くした弁護士の)布施辰治など先人の例から、それは可能であると強調されています。

 半沢氏の著作「雲の先の修羅」に付録として載せられている「戦争の数学」も大変興味深いものです。日露戦争後、連合艦隊の解散式で東郷平八郎司令長官が読み上げた「解散の辞」の中に、「百発百中の一砲よく百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という有名な言葉があります。一見正しく思われる上、執筆が秋山真之とされ、神格化された東郷平八郎が読み上げたため、日本の軍事思想に大きな影響をおよぼし、精神主義を助長したと言われているものです。付録の「戦争の数学」では、この命題が本当に正しいかどうか、数学的に検証されています。
 結論は、「百発百中の一砲よく百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という命題は、大きくまちがっており、百発百中の砲一門は、百発一中の砲十門にしか匹敵しません。つまり、能力に対して数のほうが、自乗で効果をもつのです。
 この判断を誤ったため、日本軍は兵数の不足を鍛練で補う精神主義に陥り、兵数の軽視ひいては兵の生命の軽視が助長されたと、半沢氏は指摘しています。あわせて、「坂の上の雲」がこのような疑似数理を無批判で受け入れていて、日露戦争中(戦争後ではなく)からの日本軍の非合理性に無感覚であること、戦争中の兵の生命の軽視を、乃木希典をスケープゴートにして隠ぺいしていることも問題とされています。

 歴史は、社会システムの状態遷移であり、そのモデル化は、情報システム関係者にとっても重要な課題です。半沢氏の「坂の上の雲」批判と疑似数理の解析は、特に明治以降の日本とアジアの歴史を洞察する上で、大変啓発的であり参考になります。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。