情報システム学会 メールマガジン 2010.11.25 No.05-08 [10]

連載 情報システムの本質に迫る
第42回 尖閣問題の情報システム学

芳賀 正憲

 ソフトウェア工学に情報隠ぺいという考え方があります。隠ぺいは、マイナスイメージをもった言葉ですが、ここでは、ソフトウェアを高い品質でマネジメントしていくため、モジュールの内部詳細はインタフェースの背後に隠すことが重要であるというプラスの意味で用いられています。一般的にも、システム全体の挙動を高めるため、システムを構成する各主体が、外部に出す情報を適切にコントロールする必要があることは、容易に理解できます。
 尖閣諸島沖で起きた中国漁船衝突事件のビデオ映像流出は、社会に大きな衝撃を与えました。動画サイトへの投稿を認めた海上保安官に対して、公務員の守秘義務に違反した許されざる行為という指摘がある一方、保安官を国民の知る権利に応えた英雄として称賛する声も多く聞かれます。流出した情報が文書ではなく、人間の理性より情緒の側面に直接働きかけやすい映像だったことも、今回の事件の特徴です。

 今回の漁船衝突事件の経緯は、逐一詳細に報道されていますが、日中それぞれの対応に大きな齟齬がありました。
 9月7日衝突事件を起こした中国人船長は、翌日緊急逮捕され、19日にはさらに勾留が延長になりました。日本としては、国内法の原則にしたがって処置をしたものです。
 しかし尖閣諸島を自国の固有の領土とみなしている中国は、これを不当逮捕として直ちに釈放を要求、ガス田交渉の延期、閣僚級をはじめとする多くの交流の停止、わが国産業の生命線の1つであるレアアースの事実上の禁輸など次々と対抗策を打ち出し、9月24日には建設会社フジタの関係者4名の中国国内法にもとづく拘束にまで至りました。

 この段階でわが国は、従来の原則重視から柔軟路線に転じ、中国人船長を釈放、9月末には民主党の細野議員が訪中して政府首脳に根回しを行ない、曲折はありましたが、10月4日ベルギーの国際会議で菅首相と温家宝首相の会談が実現、事態は急速に収束に向かいました。9月末にはレアアース輸出再開の兆しがあり、10月9日には1千人規模の日本の青年に対する上海万博への再招待の連絡がなされ、拘束されていたフジタの関係者も同日までにすべて解放されました。

 国際関係の中では相手が存在しているのですから、自国の立場を主張するだけでなく、相手のアクションに応じて臨機応変に対応をとっていくことが不可欠です。わが国としてまず原則を主張するのが基本ですが、国際関係の中でわが国だけの原則を貫き通すことはむずかしく、硬軟組み合わせた措置をとることは必然であると言えます。
 しかしこの事件の場合、硬軟の措置が10数日を隔ててなされたため、国内的には一貫性に欠けた妥協と見なされ、野党などから激しい攻撃を受けることになりました。内閣支持率もNHKの調査で、内閣発足直後9月21日(船長釈放前)の発表で65%あったものが、10月12日発表では48%に急落しました。
 硬軟矛盾した政策をとらざるを得ないときは、6年前尖閣諸島に上陸した7人の中国人を逮捕後、直ちに送検を断念して中国機に乗せ帰国させたように、間髪を容れず意思決定をした方が、日中関係にとっても政府への信頼という観点からも、ダメージが少なかったと思われます。ただし野党の方も政権を担っていたときは、タイミングの差はあっても、結果的に同様の対応を取らざるを得なかったのですから、あたかも政府が主権を放棄したかのような非難を続けるのではなく、リスク分析のタイミングとプロセスに論点を絞った方が、より建設的な議論が可能だったと考えられます。

 一方、日本のテレビや新聞では、当初ほとんど報道されることがなかったのですが、自衛隊の元幹部を会長にした保守系の団体などが、船長の釈放に抗議し、尖閣諸島の防衛を主張して、東京などいくつかの都市で反中デモを行なっていました。この様子は外国のメディアでは報じられ、またインターネットによって、特に10月16日の中国大使館へのデモが予告されたため、これが中国国内の強硬派を刺激、他の要因も重なったとされていますが、同日以降の中国各地における、かなり激しい反日デモとなりました。
 9月に仙谷官房長官が「日本も中国も、偏狭で極端なナショナリズムを刺激しないことを心すべきだ」と述べたことがありましたが、両国とも政府とは別に、それぞれ反中・反日を標榜するグループが存在し、互いに挑発と反発をして両国間に緊張をもたらす懸念があることには、留意が必要です。

 また10月28日には前原外相とクリントン長官の会談が行われ、その席で同長官から「尖閣諸島は日米安保の対象になる」との発言がなされたため、中国政府はこれに強く反発、翌日予定されていたハノイにおける菅・温家宝両首相の会談は、急きょ中止になりました。両国の関係が10月4日のベルギーにおける首脳会談のレベルまで修復するには、11月13日のAPECにおける菅・胡錦濤会談まで待たざるを得ませんでした。

 衝突事件のビデオ映像が公開されなかったのは、当初は刑事事件の証拠物件だったためですが、船長を釈放して以降は、むしろ反中感情を刺激するのを避けることと外交カードとしての保持が目的だったと考えられます。
 これに対して野党などは、わが国の正当性を主張するため真相を解明する必要があることと国民の知る権利を根拠に、ビデオの公開を要求し、10月13日、衆院予算委員会がビデオの国会提出を那覇地検に求めることを全会一致で決定しました。
 国会におけるビデオの公開は、11月1日、衆参の予算委理事だけを対象にして、衝突場面を中心に7分弱に編集したもので行なわれました。ビデオを視聴した野党の議員からは、「悪質な事件であり、実態を明らかにするためにも、世界中に公開すべきだ」などの主張がなされましたが、政府首脳はこの時点では一般公開に難色を示しました。しかしビデオに収録された衝突の様子は、視聴した議員の話にもとづき、図解やテレビ局作成のCGなどにより、広く国民に伝えられました。

 このような状況の中、11月4日の夜になって、突然インターネットの動画サイトに、44分余にのぼる衝突事件のビデオ映像が、6分割して投稿されました。この映像自体は、翌朝投稿者自身によって削除されましたが、それまでに多数のコピーがとられていて複数の動画サイトに掲載され、また翌未明以降、テレビを通じ繰り返し放映されて視聴者を驚かせました。
 ビデオ映像の流出に衝撃を受けた海上保安庁は、内部調査では解決ができず、11月8日に刑事告発、これを受けて東京地検は11月9日、動画サイトを運営するグーグルから通信記録を押収して警視庁と分析の結果、問題の映像は神戸の漫画喫茶から投稿されたことが分かりました。
 翌11月10日、第5管区(神戸)の海上保安官が、自ら映像を流出させたことを上司に告白、この日の午後から同管区の庁舎内で任意の事情聴取を受けていましたが、11月15日、映像の秘密性の度合いが当初の見込みより少ないと見なされるようになってきたこと、逃亡や証拠隠滅の可能性が低いことなどから、逮捕の見送りが決定され、翌未明、保安官は庁舎をでました。このとき、「広く一人でも多くの人に、遠く離れた日本の海での出来事を見てもらい、一人ひとりが考え判断し行動してほしかった」という主旨のコメントを、弁護士を通じて発表しました。

 ビデオ映像の流出が判明して以降、投稿者が海上保安官であることが分かってからも、流出者を称賛する声が、マスコミやネットにあふれました。
 石原・都知事は、海上保安官を「愛国者」と称え、元警察官僚の佐々氏はテレビ番組で、流出者を「正義の味方、月光仮面」にたとえて「弁護にまわりたい」と語っています。また弁護士の丸山参議院議員は、やはり弁護人になることを申し出た上で、テレビタレント出身らしく「国民栄誉賞もの」とまで持ち上げています。
 しかし中国では、釈放された船長が帰国時、英雄として大歓迎を受け、地元の市から「道徳模範」で表彰されているのですから、「模範」といい「栄誉賞」といい、両者に対する賛辞の思考パターンは、同レベルであると言えます。
 問題は流出者に対する高い評価が、マスコミに登場する上記のような人たちだけでなく、国民の間にもかなり広がっていることです。
 前述の佐々氏がネット上で海上保安官の刑事処分に反対する署名を集めたところ、3日間で1万通を超えるメールが届きました。これにはもともと思考プロセスの近い人が参加している可能性がありますが、テレビで道行く人にインタビューをしても、流出者に共感の声が多く聞かれます。
 11月の13〜14日、テレビ朝日で世論調査をしたところ、保安官の行為を問題だと思う人は45%で、問題だと思わない人の41%をわずかながら上まわっているものの、流出させた行為を理解する人は64%で、理解しない人の20%に大差をつけています。流出した結果、衝突状況が見られてよかったと思う人は、88%に達しています。

 「七つの資本主義」(日本経済新聞社刊)の著者たちが日本に関して、「(国民全体が)一丸となって集産主義的誤りを犯しやすい」と警告していたことをメルマガの9月号で紹介しましたが、往々にして世論は、合理的とは思えない根拠で一方向に形成されるので注意が必要です。
 小泉内閣の時代、小泉マジックと呼ばれるものがありました。事前の調査で低かった政策の支持率が、小泉首相が決断すると、はね上がるのです。
 日本経済新聞によると、例えば2006年、終戦の日の靖国参拝は、直前7月下旬の調査で賛成28%、反対53%でした。ところが実際に参拝した直後の調査では、賛成48%、反対36%と逆転しました。また自衛隊のイラク派遣に関しては、事前の調査で、賛成が33%、反対52%でした。これが派遣命令が下った後の調査で、賛成43%、反対42%と賛成の方がわずかですが多くなりました。郵政の民営化については、総選挙の前の月、「解散を辞さない首相の姿勢を支持する」はわずか24%しかなかったのです。しかし解散に踏み切った直後の調査では、賛成の53%が反対の33%を大きく引き離しました。

 合理性の欠落した一方向への世論の形成は、ときとして恐ろしい結末を招くことがあります。
 5.15事件で犬養首相を暗殺した青年将校たちに対して、「国を愛する純粋な青年が、自らを犠牲にして腐敗した政治家を倒した」という弁護が行なわれ、これをマスコミが支持、新聞記者が「私はこの記事を泣きながら書いている」などの文章で国民の心に訴えかけたため、青年将校たちへの同情の世論が盛り上がり、裁判所には100万通以上の減刑嘆願書が届けられました。当時11歳だった孫の犬養道子氏は、なぜ殺人犯が英雄になり、被害者の自分たちが肩身の狭い思いをしなければならないのかと疑問に感じたそうです。(保坂正康「太平洋戦争、七つの謎」を参照)
 この事件を契機に、青年将校と軍部の暴走は止めようがなくなり、わが国は破滅への道を歩むことになりました。

 ビデオ映像を流出させた海上保安官に対しては、これを内部告発者として擁護する意見があります。
 一般的に正当な内部告発として、「組織の上司に提言したが、満足な回答が得られない」「告発することが公益に資する」などの要件が挙げられています。ビデオ映像を一般公開しない方針は、国のきわめて上層部で決定されていますから、担当者が提言するのは容易ではなく、前者の要件はパスすることが可能でしょう。後者の公益に関して、国の上層部では、一般的に担当者よりはるかに多くの情報をもとに意思決定をしていますから、国が明らかな法令違反をしているのならともかく、ビデオ映像の公開の是非を担当者が上層部より正しく判断できるかどうかについては、一考の余地があります。

 今回のビデオ映像流出に関して、マスコミを通じて多くの解説や意見が公表されました。その中で、11月5日テレビ朝日の「報道ステーション」でなされた元法務省官房長・堀田力氏の発言は、注目すべきものです。以下に抜粋を示します。
 堀田氏「基本的にそもそも領海の問題があるから、相手の船がそこにいるから悪いという、中国側の立場に立てば、そういう言い分も立つ。だからこれを公開して、これで決めようと思っても、決まらないのかな、そこは。ますます両方の言い分が燃え盛る、そういう恐れの方が強い。私は、そちらの方を心配する。」
 キャスター「・・・中国に圧倒的な非がある。き然として、日本国家として中国に抗議をして、言うことを言った上で、相手側の言い分を聞き、平和裏に進めていくという難しさが迫られているのではないか?」
 堀田氏「その方法で行くか、それとももう忘れてしまって、先に向かって両国の関係を築いていく方向を選ぶか、これは1つの政治判断だと思う。」
 キャスター「・・・ゴールをどこに見せるからこそ忘れるのか?」
 堀田氏「先である。これからの両国関係、これはいい関係でいかざるを得ない。その方が両方にとってプラスですから。そこを第1の価値とし、第2には、これで問題がきちんと解決するのか、どこに訴えて、誰が判定して、どういうことになるのか、そちらも考えて、両方考え合わせての判断になるのだろう。」

 今年中国のGDPは、ドル換算で日本を上まわることが確実ですが、購買力平価ベースでは、昨年すでに日本の2倍を超えており、今月米国の調査会社が発表したところでは、2012年に米国を抜く見通しです(11月11日 日本経済新聞夕刊)。軍事費のGDP比率を一定に保つだけでも、その規模は実質的に莫大なものになり、わが国は近いうちに、現在の米国をはるかに凌駕する経済・軍事大国を近隣にもつことになります。

 ナチス・ドイツとソ連という帝国主義的な大国を周辺にもちながら、190年間平和を保ち続け、モデルともみなされる国づくりに成功したスウェーデンなら、どのようにリスク分析を進めるのか、考察の必要がありそうです。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。皆様からもご意見を頂ければ幸いです。