情報システム学会 メールマガジン 2010.5.25 No.05-02 [12]

連載 情報システムの本質に迫る
第36回 ジャーナリストの説明責任

芳賀 正憲

 4月に亡くなった井上ひさしの戯曲に、女流作家の林芙美子をモデルにした「太鼓たたいて笛ふいて」があります。大竹しのぶの主演で、数々の演劇賞に輝いた優れた作品です。
 戯曲の中で林芙美子は、アジア・太平洋戦争の大義に共鳴、新聞特派員あるいは内閣情報部の一員として南京・武漢の攻略戦に従軍し、紙面やラジオを通じて、兵士をたたえ、戦場を美化する作品を発表し続けます。しかしその後、ジャワ・ボルネオなど占領地域を長期にわたって視察したのを契機に、自国民にも他国民にも惨憺たる災禍をもたらしている戦争の実相を把握、太鼓をたたき笛をふき、虚構を語って国民を戦争に駆り立てた自らの非をさとり、早期の敗戦を主張、そのため非国民として警察の監視下に置かれ、発言を封じられます。
 戦後の林芙美子は、戦争賛美の責任をとり、おびただしい戦争の被害者にわびる気持ちで、病弱の体をおして、未亡人や孤児、復員兵など、戦争に打ちのめされた普通の人々の悲しみをひたすらに書き続け、緩慢な自殺ではないかと言われながら、47歳で帰らぬ人となります。

  私たち一般市民が、日常的に意思決定していくためには、今世の中がどのようになっているのか、何がどのような要因でどのように推移しつつあるのか、モデリングが必要です。しかし、市民の一人ひとりは、時間的に各自の仕事に忙殺されている上、空間的にも見聞できる範囲が限られていますから、世の中で起きている問題についてその構造を自分で見きわめる余裕は、ほとんどありません。
  そこで、社会全体としてジャーナリストという専門家集団をつくり、彼らに委託して、あまねく世の中で起きている問題の調査と分析、説明を行なってもらい、一般市民はその説明をもとに、世の中のモデリングを行なっていくという仕組みになっています。そのためのコストはかなり高く、例えば一般紙を1部購読すると、年間の費用は情報システム学会費の10倍以上になります。

 ここで問題となるのが、ジャーナリストによる調査と分析、説明の妥当性です。記者や編集者は、人間として当然認知能力の限界をもっていますし、世の中の対象は、分野ごとに(メルマガの昨年5月号で挙げた、光合成の知識が100年で1万倍に増えた例に見られるように)著しく高度化・複雑化が進んでいます。
 記者や編集者は、分野ごとに有識者も動員して分析と説明に当たるのですが、有識者を含めても、問題の核心を見きわめるのは決して容易ではありません。林芙美子は、作家として人間と社会に対する洞察力に長けていたはずですが、たびたび前線に出向いていても、戦争の実相をつかむのに数年を要しました。それまでは(後で振り返って言えることですが)虚偽の言説を弄していたのです。

 しかし、もしもジャーナリストと有識者によって的確な説明がなされなかったら、一般市民が問題の構造を的確に把握するのはさらに困難であり、そのとき問題構造は社会の誰によっても把握がなされていないという、恐るべき状態が出現することになります。現代社会において、ジャーナリズムの役割と責任がいかに大きいかが分かります。

 現在わが国では、社会的に大きな影響のある問題が次々に起きていますが、このときジャーナリズムによる説明の不適切さが、主に2つの側面から発生すると考えられます。
 1つは、記者や編集者に知見が乏しいために、問題が問題として認識されず、したがって、重要な問題が存在しているのに報道がなされないことです。あと1つは、有識者が加わったとき、既存の問題の知見があるため、新たに起きた問題も、事実に即さず、既知の問題に結びつけて説明してしまうことです。

 メルマガの2月号でとり上げましたが、トヨタのハイブリッドカー・プリウスのリコールのニュースは、私たちを驚かせました。トヨタはその前にフロアマットやアクセルペダルに関しても問題を起こしており、日経新聞では3月中旬、わが国で最高と目される識者4名に依頼し、トヨタの問題をどのように考えるべきか、長文の論考を連載しました。
 このうち最終回の論考は、プリウスのブレーキの問題に焦点をあてていて、きわめて注目すべきものです。
 論考ではまず、トヨタの記者会見などをもとに、「リコールの原因となった不具合はブレーキにかかわる2つの技術、すなわちABS(アンチロック・ブレーキシステム)と回生ブレーキがうまく協調できなかった点にあると思われる」としています。
 そして「複雑な制御の手順に頼るこの2つの機能がブレーキという自動車の根幹にかかわる装置で出合った時に、お互いの複雑さが相乗効果を引き起こしたことは想像に難くない」と述べ、「つまりこの問題のキーワードは『複雑さ』にある」と論点を絞っています。
 その上で、複雑さの進展が生産手段から消費財にまで及んだにもかかわらず、技術が追いついていないために今回のような問題が起きたのであり、この問題は今まで日本が得意としていた匠の技だけでは克服できず、広範囲に、システム技術を担う人材育成と基盤の強化が急がれる、と結論づけています。

 しかし、この論考には疑問の余地があります。もともとABSの作動時には、回生ブレーキは解除されているのですから、両者の相乗効果は起こりようがありません。
 リコールの原因となった不具合は、メルマガの2月号で述べたように、ABS作動時、回生ブレーキを解除し油圧ブレーキの圧力を高める際に、新型では運転者がブレーキを踏んで発生させブースタで増幅した油圧を使うことにしたため、ブレーキを軽くしか踏んでいないと、旧型で用いていた電動ポンプとの特性の差で、発生する油圧が小さくなり、制動力が一瞬弱まることになって起きたものです。
 したがって対策は、制御方式変更時のリスク分析、設計に対するウォークスルー、それにいわゆる回帰テストのケース設定を今後いかに的確に進めていくかにあるのであり、複雑系の課題に対応するため、システム技術を担う人材育成と基盤の強化を急ぐということとは、論点を異にします。
 複雑系の課題は一般的には存在していますが、今回のリコール問題の帰結ではありません。ABSと回生ブレーキの干渉という観点では、プリウスは初代以来、新型に至るまで、一貫して協調に成功しているとみてよいのです。

 それでは、トヨタの記者会見をもとにしながら、上記の論考では、なぜ不具合の原因を複雑系と推測してしまったのでしょうか。1つの可能性として、論者が一般紙のみを読んでいたことが考えられます。記者会見では、トヨタの幹部により原因の説明が詳細に行なわれていたにもかかわらず、一般紙にはそれが載らなかったからです。

 「説明」の厳密な意味は、「事物が『何故かくあるか』の根拠を示すもの」(広辞苑)とされていて、言語技術においても「なぜ」に言及することが基本になっています。今回の場合、一般紙の記者は、「説明」の厳密な意味を知らず、言語技術の基本も弁えていなかった懸念があります。
また、最終回の論考を載せた編集者にも問題があります。論考は識者に依頼するとしても、テーマに関して、すでに明らかになっている事実関係は正確におさえていないと、原稿のチェックも十分にはできないことになります。

 情報システムに関連して、社会的に問題の構造が十分把握されていないのではないかと考えられる事例として、さらに、このメルマガでも何回かとり上げ、有志によってレポートも出された年金記録管理システムの問題があります。
 この件に関しては、過日学会の有志がアスキーのWebマガジンのインタビューを受け、その結果が同誌の本年4月26日号に掲載されました。その記事の中でも、問題の構造が正しくつかまれていないことを重要な課題として挙げています。
  http://ascii.jp/elem/000/000/506/506722/

 年金記録管理システムに関しても、問題の構造が一般紙に報じられることはほとんどなく、またいわゆる有識者によって、要因が周知の既存の問題に帰せられて論じられることが多くありました。
 前者は、一般紙の記者や編集者に、情報システムに関する知見がきわめて少ないことが原因と思われます。5000万件の不明データが政治的に大問題になっていた最中に、有力報道機関の論説委員長クラスの人が、20年以上前から記録データはすべてコンピュータシステムの中で管理されていること、記録管理システムを開発・維持するだけのために1兆円を超える本四架橋並みの予算が投じられていることを認識していなかったので、驚いたことがあります(彼の方も、えっ、1兆円以上もですか、と驚いていました)。

 専門誌である日経コンピュータが、昨年1月、年金記録問題に関する特集を組みました。政治問題化していたこともあって、政治家2名を前面に出して発言させるという異例の構成になっています。
 その中で、自民党の伊藤達也衆議院議員は、「社保庁はシステムのことが分からず、ベンダーには業務が分からなかった」から問題が起きたのではないかと述べています。

 情報システムには、発注者にしか分からない複雑な仕様の問題があり、その定義に受注者と発注者のどちらが責任をもつべきか、つねに議論が分かれるところです。発注者が責任をもつべきだという強力な意見がある一方、発注者が純粋な利用者の場合、仕様定義技法をもたず、直接的な機能ならともかく、PDCAサイクルの完結やトラッキング機能などの必要性の指摘、フィージビリティスタディなど、実際問題として可能なのかという意見もあります。
 発注者・受注者間にこのような仕様の問題が存在していることは往々にしてあるのですが、年金記録管理システム問題の本質は、それとは異なっています。実は、システム開発の前から大量の不良データがあることが、受注者の調査により明らかになっていたのです。大量の不良データをそのまま移行して、システムを動かしたらどうなるかということは、受注者でも十分判断できることです。

 有識者の間で年金記録管理システムの議論をする中で、しばしば出てきたのは、開発の当事者から直接ヒアリングしなければ意味のある分析ができないのではないかという意見です。たしかに問題分析に際しヒアリングが必須のケースもあるでしょうが、年金記録管理システムの場合、実際にはヒアリングしなくても、決定的に重要な事実が明らかになっていました。
 第1に、上で述べたように、オンラインシステムへのデータ移行前に、データの事前調査を受注者が実施し、不良データの存在が判明していたのです。このことは、受注者が自ら発表しています。
 第2に、年金特別便とか年金定期便あるいはオンラインによる記録データの閲覧機能が最近になって実現したことは、それまで管理システムに必須のPDCAサイクルのCのプロセスが欠落していたことを明確に示しています。
 第3に、記録データのキーが、人ではなく手帳だったことは周知です。
これらの事実に、80年代、システム開発のマネジメント・プロセスとプロダクト・プロセスのあるべき姿がすでにどのレベルに到達していたのかを併せて考慮すると、問題の構造は明白です。

 このように、決定的な事実から問題の構造がクリアにできることは、「原爆に関する最高の機密は、それが爆発することである」という有名な命題を想起させます。
 最近、この命題の妥当性を端的に示す事件がありました。
 2年前に起きた中国製冷凍ギョウザ中毒事件で、袋に穴があるかどうかは、毒が混入した工程を特定するための重要な情報になりますが、千葉県警は鑑定で「ない」と判断していました。ところが、中国で容疑者が逮捕され、注射器で毒を混入したことを自供、中国側から説明を受けた警察庁が、科学警察研究所で再鑑定したところ、なんと、穴が見つかったのです(5月15日、日経新聞朝刊)。

 今、わが国でも世界全体でも、政治的、経済的、あるいは産業や技術に関連して、大きな問題が次々に起きていますが、多くの場合、それがいったいどんな問題であるのかアイデンティファイ自体できていない、むしろまちがったアイデンティファイがなされているのが実態です。

 井上ひさしの描く林芙美子が、残り少ない命を振りしぼって、戦争に打ちのめされた人々の悲しみをひたすらに書き続けたとき、「しっかりしないとね」と自身に言い聞かせるのが口癖でした。
 21世紀の情報社会で、日本が国の形づくりの進路を誤らないためには、情報システム学会が「しっかり」と、続出する問題のアイデンティファイを行ない、社会に提示していくことが必要と思われます。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。