情報システム学会 メールマガジン 2009.11.25 No.04-09 [13]

連載 情報システムの本質に迫る
第30回 スーパー科目としての高校教科 「情報」

芳賀 正憲

 高等学校の教科「情報」は、情報社会で基本的に重要な「情報」の概念を国民の多くが学ぶための必須科目であるにもかかわらず、さまざまな問題点が指摘されています。
 3年前、高等学校における必履修科目の未履修が全国的に大きな問題になったとき、教科「情報」は世界史に次いで未履修者の多い科目になっていたことが明らかになりました。この後、全国高等学校校長協会からは、中央教育審議会に対して、教科「情報」を必履修科目からはずすように繰り返し要望書が出されています。山上通惠氏によると同様の要望が全国PTA連合会、一部の教職員団体、一部の「情報科」担当者のグループからも出されているとのことで、本来教科を推進すべき有力な立場にある人たちに、教科「情報」が十分な価値観をもって受け入れられていないことはまちがいありません。
 山上通惠氏は、本年7月のメルマガと9月の研究会において、現状指導教員の能力や授業の進め方などに関しても多くの問題を提起されています。それに加えて本稿では、教科「情報」が、コンピュータではなく、「情報」や「情報システム」に関して、真に概念的基礎から学ぶことができる教科設計になっているのか、再吟味していきたいと思います。

 現状の教科「情報」が、その名称にもかかわらず、コンピュータやネットワークの原理や活用の仕方に重点をおいて設計されたのは、学習指導要領がそのようになっているからです。学習指導要領で「情報A」の目標は「コンピュータや情報通信ネットワークなどの活用を通して・・・」、「情報B」の目標は「コンピュータにおける情報の表し方や処理の仕組み・・・」、「情報C」の目標は「情報のディジタル化や情報通信ネットワークの特性を理解させ・・・」などと記述されています。教科の目標自体が文言の最初からコンピュータやディジタル機器を前提にして情報を取り扱うよう設定されているのです。

 結果として教科書では、人間にとっての「情報」の説明は、きわめてわずかなものになっています。
 P社の場合、「情報A」では、序章に「情報とは」という項目があり、数行の説明がなされています。そこでは、情報とは「何かを考えたり行動したりするときに必要な知識である」とされています。これは情報に関するかなり狭い定義です。その上、情報がどのような要素から成り立っているのか(例えば水ならばHO)という説明がなされていません。また、「情報B」では、「情報」の説明は省略されています。

 Q社の場合は、説明の仕方に特徴があります。「情報A」では、第1章が「情報とは何か?」になっています。そこでは、旅行先で土地のおいしいものを食べたいとき、目的に適った料理屋を知る方法が4通りあることを挙げた上で、どの方法をとるかによって次の行動が異なり、満足度や出費額がちがってくる、この「ちがい」を生み出すもの、つまり意思決定の材料になるものが「情報」であるとしています。
 「情報B」では、第1章が「情報とコンピュータ」で、そのA節が「情報と従来の教科との比較」という興味深い内容になっています。冒頭、「情報と物理」の項で、16本のマッチ棒をテーブルの上に投げたとき、ランダムに散らばった場合と、SOS(または505)の形に整って配置された場合を比較し、物理的な観点では差がないこと、しかし後者になる確率が低いこと、何かが2つの並び方を区別していて、この差が「情報」であるとしています。エントロピー概念による情報の定義を背景にしています。
 この節で、「情報を表すもの」は物質や光、電波など(物理的存在)であり、それらは物理の法則に従う、したがって情報は科学的に(例えばコンピュータで)取り扱うことができるとしているのは、示唆に富んだ説明です。
 「情報と数学」の項では、情報でアルゴリズムがきわめて重要であるのに対して、高校の数学では問題を演えき的(すなわち問題の中に答のすべての情報が含まれている)に解くことができるため、アルゴリズムの考え方がほとんど出てこないということを、ちがいとして挙げています。
 この教科書では、アルゴリズムが「情報B」の基本であり、そのためアルゴリズムの自動実行機械であるコンピュータの学習が大きな比重を占めるとしています。そして、他の教科でもアルゴリズムが重視される分野は、情報と関連が深くコンピュータが多用されるとして、物理の実験、気象や空気の流れ(カオス現象)、遺伝子(設計図ではなくレシピ)、地層のでき方、ビジネスなどが例示されています。
 第1章のB節は、早速「コンピュータとは何か」になっています。ここでは、コンピュータは「情報」を処理することを目的とした機械であるとしています。しかし、コンピュータにおける「情報」と人間にとっての「情報」は、取り扱う側面が異なっていることに注意の喚起が必要と思われます。人間は、情報の内容(意味)を中心に処理をしていますが、コンピュータは意味をまったく解さず、上記したように情報を表現している物理的な状態だけをベースにその変換処理をしているからです。

 以上、2社の教科書で「情報」がどのように説明されているか見てきましたが、現時点で、分野を問わず広く国民全体で情報概念を共有するには、社会学者の吉田民人氏の定義を参考にするのが適切ではないかと思われます。すでに昨年10月のメルマガでご紹介しましたが、吉田氏は、きわめて広範囲な視点と歴史的な考察から、画期的な「情報」概念を提示されました。

 吉田氏の定義は、最広義・広義・狭義・最狭義の4段階に分けられていて、進化史的に科学的情報概念が説明されています。
 最広義の定義は、「物質エネルギーの時間的・空間的、定性的・定量的なパタン」というものです。この定義について吉田氏は、物質エネルギーを質料に、パタンを形相に対応させ、「質料と形相」というアリストテレス的発想の近代科学的継承であると述べています。また、情報量は、パタンの生起確率をベースにして定義されるとしています。
 広義の定義は、生物的自然と人間的自然のみを範囲とするもので、「任意の進化段階の記号の集合」です。ここで記号とは、「パタン表示を固有の機能とする物質エネルギー(記号担体)によって担われるパタン」と定義されているものです。RNA・DNAが典型例ですが、神経網パタンなども該当します。「記号列」と定義されるコンピュータ用語としての情報は、記号の意味解釈を別にすれば、ここで定義された「記号の集合」という広義の情報に最も近いとされています。
 狭義の情報は、人間的自然のみを範囲とするもので、「シンボル記号の集合」と定義されます。その中で最狭義の情報は、自然言語としての情報で、「伝達されて一回起的な認知機能を果たし、個人または集団の意思決定に影響する外シンボル記号の集合」と定義されています。自然言語としての情報だけに、この定義は、「外シンボル記号」「伝達」「一回起性」「認知」「意思決定への影響」という常識的な要件で構成されています。

 先に記した2社の「情報A」の教科書の「情報」の定義は、吉田氏の最狭義の定義に相当すると考えられます。
 一般的に人間にとっての情報は、最狭義と狭義の情報を合わせたものと見なされます。このような情報を、10月に学会の調査研究委員会で記号論の講演をして頂いた田沼正也氏に習って意味情報と名づけることにします。
 意味情報は、情報内容(意味)と情報表現から成り立っています。情報表現はさらに、物理状態と、物理状態が人間に知覚されたときに認識されるパタン(符号など)から構成されています。吉田氏の表現を借りるとこのパタンは、意味表象と一定の学習を通じて脳内で物理・化学的に結合します。この意味表象が情報内容(意味)になります。

 ここで物理状態とそれが表わすパタンから成る情報表現は、広義の情報であるとも考えられます。そのうち、物理状態は最広義の情報と見なされます。すなわち、物理層、パタン(符号など)層、意味層と、進化に沿って情報概念を積み上げて形成されているのが、私たち人間の取り扱っている意味情報なのではないでしょうか。

 一方、コンピュータは、文脈に依存する意味を表象することができませんから、取り扱うことができるのは、意味情報のうち情報表現の部分だけです。しかし、近年のコンピュータにおける情報処理の顕著な特徴は、マークアップ言語などメタ言語システムのいちじるしい発展です。それによって(電子メールシステムが典型例ですが)、人間が入力した文脈依存の意味情報を、その情報表現の仕方のみ説明する情報を先方に伝達することにより、まったく同じ表現の意味情報が、先方の端末に再現できるようになりました。通常、先方は発信側とほぼ同等の文脈理解力をもっていると考えられますから、ディジタルの情報機器を用いても、実質的に文脈依存の意味情報による対話が、ほとんど抵抗なく可能になっています。
 このとき、コンピュータの利用者は、コンピュータやネットワークの中でどのように情報表現の変換や伝送が行なわれているか意識する必要はまったくありません。コンピュータの内部処理については、情報隠ぺいがなされていると見てよいのです。情報化の歴史は、情報隠ぺいが進んでいった歴史と見ることが可能です。したがって、利用者として(国民全体として)第一義的には、意味情報を処理する能力をいかに高めるかに専心すればよいことになります。それこそが情報教育の最初にめざす方向と考えられます(専門家にはもちろん、内部処理をいかに効果的・効率的に実行するかに関して能力開発が必要です)。

 人間にとって意味情報の処理能力の重要性は、コンピュータとネットワークを通じて対話をするときだけでなく、コンピュータに処理をさせ、その結果を利用するときも同様です。
 コンピュータにおいては、入力された意味情報に対して、(ハードが故障していない限り)もともと人間が指示した通りの手続きで処理が行われ、その結果が再び意味情報として人間に返されます。したがって、コンピュータによっていかに適切に処理を行うかということは、ひとえに人間が、どのような意味情報に対して、どのような手続きで処理を進めるようにコンピュータに指示するか、ということにかかっています。
 この処理手続き(プログラム)は、一般的に、人間がまず要件を定義し、その内容を基本設計、詳細設計と段階的に詳細化・厳密化し、最後には誰が担当しても誤解の起きないようなプログラム仕様書を作成、それに、もとづいてコード化されます。
 要件定義の前に人間が要求を出した段階では、その要求は文脈にきわめて依存した情報になっています。それを要件として定義し、基本設計、詳細設計と、段階的に詳細化・厳密化していくことにより、プログラム仕様書になったときには、誰が担当しても同じ処理手続きになるよう、文脈には依存しない情報になっています(目標として)。
 つまり意味情報は、文脈に依存するかしないかに分かれるのではなく、文脈依存度にもさまざまなレベルがあって、それがゼロになった場合、正確にコード化することが可能になります。
 したがってコンピュータに正しく処理をさせるためにも、人間が意味情報をいかに的確に処理できるかということが決定的に重要になります。
 自然言語で、日本語は文脈依存度が高く、北欧・英語系はそれが相対的に低いというのが定説です。ITが、日本に比べて欧米で先に進んだ要因の1つになっているのではないかと思われます。意味情報の処理能力を高めるため、わが国ではまず、いかに文脈に依存しない論理的な文章の作成や対話ができるようになるか、言語技術をベースに思考能力(問題解決能力)を高めることが重要と考えられます。

 人間の能力が優れているのは、物理的状態を知覚しこれをパタンとして認識したとき、それを概念化して意味情報とし、さらにその意味情報を符号化(言語化)して伝達可能な表現形式にできることです。この能力によって人間は、吉田氏の言われる広義の情報も、最広義の情報も、知覚と認識ができる限り、すべて意味情報として取り扱うことが可能になりました。
 さらに人間は、物理的状態だけでなく、社会の体制や人間の活動形態、思考のプロセス(例えば「演えき」や「帰納」)や思考の結果生み出されたもの(例えば「理想」)まで概念化し、意味情報としてきています。
 このように多くの意味情報が集積されると、それらの間に関係を見出し、より高度の意味情報をつくり出すことが可能になります。これがいわゆる科学です。さらに人間は頭の中で、現実にはまだ存在しないが、より効果的と想定される新たな意味情報の関係を考え出し、それを具体化(incarnation)することもできます。これが工学や経営学などです。

 吉田氏は自ら進められた情報概念の考察をベースに、近代科学を次のような6類型に分けられました。

 1)法則科学(実証科学)
 2)シグナル性プログラム科学(実証科学)
 3)シンボル性プログラム科学(実証科学)
 4)法則科学に対応する設計科学
 5)シグナル性プログラム科学に対応する設計科学
 6)シンボル性プログラム科学に対応する設計科学

 ここでシグナル記号は、DNAや神経記号などを意味し、シンボル記号は典型的には言語です。上記で1)2)3)は、それぞれ物理・化学的自然、生物的自然、人間的自然に対応していて、4)5)6)の例としてはそれぞれ、伝統的ないわゆる工学、遺伝子工学、政策科学や社会工学が挙げられます。
 吉田民人氏の科学の分類では、生物的自然と人間的自然を対象に、進化するプロセスにおける記号の集合に関して、記述、説明、予測、設計、選択をするプログラム科学とそれに対応する設計科学が提唱されたことに画期的な意義があります。ここでプログラムと呼ばれているものは、Q社の「情報B」の教科書にあった「アルゴリズム」に対応していると考えられます。
 情報の定義が「質料と形相」というアリストテレス的発想の近代科学的継承であることとならんで、上記の体系は、自然学などの「観照」、ポリスの学などの「実践」、詩学などの「制作」という大きく3つの分類で当時のすべての学問を整理したアリストテレスの学問体系の、現代におけるバージョンアップと言えるのではないでしょうか。

 高校における各教科は、上記近代科学の6類型の中に位置づけることができます。したがって、情報概念の理解を通じて、各教科の位置づけと成り立ちを学ぶことが可能になります。
 普通高校における各教科は、ほとんどが実証科学の領域で、設計科学の要素は少ないと思われますが、いずれであってもその成果は、メルマガの本年1月5日号で市川惇信氏の所説として述べたように、仮説実証法で(意味情報の収集と発想結果をもとに)得られたものです。
 各教科で意味情報が仮説実証法でどのように処理され、内容が形成されていったかを学ぶことにより、教科に対する関心も増し、理解も進むものと期待されます。(このように見てくると、メルマガの昨年3月号で述べた板倉聖宣氏の創始による「仮説実験授業」が、いかに優れた教育システムであるかということがよく分かります。)この進め方は、高校生が将来の進路計画を立てるために各分野の特質を知る上でも役立ちます。

 当然各科目においても情報概念にもとづいた教育がなされるべきでしょう。教科「情報」が必履修科目であるという趣旨からも、各教科の教員すべてが情報概念にもとづいた説明能力をもつべきです。しかし、情報概念が各教科に共通に必要な考え方であること、情報概念と情報システムそのものについて懇切な説明を要すること、演習に時間をとらなければならないことなどから、やはり独立したスーパー科目(メタ科目)として教科「情報」を位置づけるのが妥当と考えられます。

 情報システムの事例としては、学校そのものを取り上げることができます。教員や建物、教科書や参考図書、実験器具や視聴覚機器、パソコン設備などから成り立ち、人類の過去からの実証科学や設計科学の成果情報を蓄積し、これを教育技術を駆使して生徒に伝え、生徒自らも両科学の発展に寄与できるようにするとともに、人格と身体能力の育成をめざす情報システムです。
 演習に関しては、個人で実施するかグループか選択の余地はあるとしても、課題研究・論文作成に勝るものは多くないと思われます。学年の初めにテーマを決め、文献調査、専門家との面談、現地調査、情報機器などを通じて情報を収集、仮説実証的に分析を進め、翌年1月までに論文を完成、提出させます。2月に最新の情報機器を駆使した発表会を開催します。

 以上のような考え方で「情報」の教科設計を進めていくことが、情報社会で基本的に重要な「情報」の概念と問題解決能力を修得した多くの国民を育成していくために必須の課題のように思われます。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。