情報システム学会 メールマガジン 2009.10.25 No.04-08 [8]

評議員からのひとこと 「情報システム学会に期待するもの」

評議員 小林 萠

 私は鉄鋼メーカに入社して3年目に、製鉄所建設プロジェクトに配属されました。それは生産から運営・管理業務に至るまで、全業務にコンピュータシステムを導入した新しい製鉄所を建設するもので、私はオンラインによる生産管理システムの開発を担当しました。以来、40年余システムエンジニア(SE)として勤務し、5年前に退職いたしました。
 この40年の間にコンピュータ関連の技術は飛躍的な発展を遂げ、企業内だけでなく各家庭にまでコンピュータが普及し、日々の生活に活用される時代になりました。「情報システム」にとっても、コンピュータシステムは強力な道具である事は申すまでもありません。
 一方、システム利用者に対する利便性は飛躍的な発展を遂げたのでしょうか。利用者に対して、システムは感覚を逆なですることなく、しっくりと馴染んだ違和感のない道具に進展したでしょうか。また、システムを構築・運営するSEの業務環境は、快適さを増して来たでしょうか。いずれも大きな疑問があります。その問題の根源を手短に言えば、システム関係者の認識と努力がまだまだ不十分だということです。「要求されて作る、作れば動く」などの受身の世界から脱却して、「SEは何をどの様に具現化して組織や個人に貢献するのか」等を突詰めて考える必要があると思います。
 1960年代後半のコンピュータシステムは、処理速度や容量が極めて貧弱でした。それ故、必然的に人間がシステムの主体となり、人間を支援するために不可欠な情報と機能とは何かを徹底して調査・検討しながらシステムが設計・製作されました。
 1980年代になると、コンピュータは速度と容量を飛躍的に拡大し、初期の頃の単純な業務から複雑膨大な計画業務にまで適用範囲を拡大しました。この時代になると何時の間にか人間主体のシステムから離れて、コンピュータ主体の巨大なシステムが構築される様になってきました。今や人間は、コンピュータからのアウトプットに追いまくられ、何故その様な結果がコンピュータから吐き出されて来たのかを十分に理解する事さえ難しくなってきました。また、経済環境の激変やコンピュータ技術の進展にあわせてシステムを再構築すべき要請が高まっても、余りにも巨大なブラックボックスであるために、経済的にも時間的にも再構築の機会を失ったシステムも散見されます。コンピュータシステムの飛躍的発展とは裏腹に、道具としては人間との密着度が益々乖離してきたのは皮肉なことであり、システム関係者の責任は重いと思っております。

 このような観点から、SE経験者から見た実務問題の一端を以下に説明いたします。

1) システムデザインを徹底する事について
 一つの業務目的を達成する業務方法・手順は幾通りも存在します。その中から一つだけを選択して、システムとして組込まれる。この一つだけを選ぶ際に、それぞれの代替案をどのような基準で評価しているのでしょうか。この時にこそ人間とコンピュータとの関係が議論され固定されていく、システムにとって極めて重要な過程と考えています。
 一般的な評価基準例としては
    ・ 業務担当者の能力と働き甲斐を促進するマン・マシン分担になっているか
    ・ 経験・習熟度の進展に応じてシステムのレベルアップは可能か
    ・ 社会・経済環境の変化に応じて変化が容易であるか
等でしょうが、勿論企業や対象業務によって評価基準は多角的なものとなるでしょう。
 問題は、デザインと言うプロセスの解明と定着が不十分で、納得いくまでデザインされているとは思えないことです。極端な例では、業務担当者にヒヤリングした業務手順を、いきなりプログラムに落してしまう例もあると聞きます。
 「システムデザイン」とは何か。或いは、システムの「機能設計」とは、何をどうすることなのか。夫々の人が、夫々の意見を持ってはいますが、SEが共通の業務として習得を目指すものにはなっていないと感じています。是非とも「デザイン」の概念を発展・具体化し、真に人間主体のシステムを確立できるデザイン方法を定着すべきだと考えます。
2) システムのブラックボックス化回避について
 企業に於けるシステム費用の中で、新規システムの開発費用と既存システムの維持費用との比率はどうなっているでしょうか。多分、既存システムの維持費用の方が多いと思います。一方で、企業を取巻く経営・経済環境の変化は、格段に速度と影響範囲を増してきているのはご承知の通りです。既存システムは、変化の速度に追従して、上手く変化を遂げてきているでしょうか。経営改革などのドラスチックな変革に対して、システムが障壁になるような事態は起こってないでしょうか。
 あまりの規模の膨大さに、システム全体を検証して変更を加えていくことが、時間的にも経済的にも困難になっているのが実態です。苦し紛れに局部的に機能が追加されて、所謂サボテン状に膨張したシステムも存在しています。更には、年月の経過に伴ってシステムの熟知度が低下し、終にはブラックボックス化して放置されてしまう。こうなると、コンピュータやシステム化技術進展の恩恵からも取残され、レガシーシステムと呼ばれて厄介者となって行きます。業務熟練者の知恵の凝縮と多大な費用で開発されたシステムを、厄介者にする事は極めて大きな損失です。
 こうなる前に手を打つには、技術的判断よりも経営的判断がより重要でしょう。適切な時期に(これは技術判断)旧いシステムを捨て、新たな人材と費用を投入して、最新のシステム基盤上に再構築すると共に人材を意図的に養成し、システム関係者の手に再び熟知度を取戻すことが必要だと思います。伊勢神宮の式年遷宮の様に、知見の伝承と人材の育成の方法を社会常識にまで広める努力が必要だと感じています。
3) SEの経験を技術として蓄積することについて
 私の愚息は、外資系システム会社のSEとして職を頂いて10年余が経過しております。
 それとはなしに仕事の状況を聞いていて、耳を疑う事が多い。40年余の私の経験とそっくりなのです。この時勢にも拘らず、土日祭日も休めることが少なく、会社に寝泊りする事も多い様です。なんだか時間が逆戻りしたかの様な錯覚を覚えるのです。
 この40年間、IT関連技術は最先端の分野として目覚しく発展してきました。しかし、システム関係者の執務状況は、全く進化していないかのように見えます。このような前時代的な職場に、経営改革やシステム改革の推進を担う優秀な人材が集まるでしょうか(就職難の昨今では多少事態は変ったか?)。現在従事しているSEも、就職・人事異動などで渋々執務している人も多いと聞きます。本来、システム部門は企業活動の情報が集まって幅広い知見が得られる、人材の育成にとって良い職場だったと思います。
 何故この職場には明るい未来への階段が無いのでしょうか。原因は多々あるでしょうが、SEの意識の問題が大きいと感じています。初期のSEは、仕事の忙しさを盾にプロジェクトの記録を残さなかった。後に記録を残す機運は生れたが、何を残せば技術に繋がるかが不明確であった。記録を残すより次の仕事だとの感覚が、組織中に充満していた事も問題でした。過去の経験から技術を学ぶと言うマインドがSEに定着しないままに、プロジェクトに追いまくられたのは不幸なことでした。今後は学会関係者の方々のご努力によって、経験を積上げて技術に至る道筋を是非確立して頂きたいと思います。

 以上、勝手ながら現役時代に着手しながらも未解決となっていた課題を中心に説明いたしました。一個人の狭い経験からの意見ではありますが、この他にも企業には多くの問題を抱えているはずです。幸いな事に、「情報システム学会」には企業からも多数の経験者の参加を頂いております。産学協同研究の強みを発揮して、実務上の課題解決に叡智を結集して頂きたいと願っております。