情報システム学会 メールマガジン 2008.9.25 No.03-6 [6]

会員コラム 「情報システムによって支えられた社会」 における学校教育

町田彰一郎 (文教大学)

 私は、長い間、教育学部の数学教育を担当してきました。このたび、「情報社会における小・中・高の(数学教育を含めた広い意味の)情報教育を考える会」を担当して、数学教育の立場から情報システムによって支えられた社会における教育について考える機会がありました。このあたりのことについて部外者ながら、私見を述べさせていただきます。

 ご承知のように、小中学校の学習指導要領がこの3月に告示されました。間もなく、高等学校の指導要領も告示されるとのことです。実施は23年からとなります。教育界は、この30数年のあいだ、社会の急速な「情報化」に翻弄され続けてきたといえます。学習指導要領は昭和26(1951)年の「生活単元学習」の時代からほぼ10年に一度の割合で改訂が繰り返されてきました。1970年代の「現代化」指導要領までは、米国の後追いの時代だともいえます。合衆国として一つの指導要領を持たない米国が、民間の研究団体(NCTM)に依頼しオープンな形で10年先の教育のあるべき姿をまとめ、勧告案という形で提言し、各州でのその実施に向けて様々な議論をしている過程を、日本人は横目に見ながら「他山の石」として研究し、その中から日本の現状に見合う内容を取り入れた形の「学習指導要領」を作り、国全体を効率よく1歩前進させるという仕組みをとっていたといえます。米国の指導者はあくまでこれからの教育の在り方を指し示す指針を示そうとし、日本は、すべての国民が確実に実施できる現実案(指導要領)の形を国が作り、実施するという形をとってきています。これは今も昔も変わらない姿ですが、1980年代になると、情報化が一般市民生活へ浸透してきます。このあたりから、今までのような米国を「他山の石」とするような態度ではあまり効果を発揮できなくなってきたように思います。10年ごとの指導要領にはキーワードがつけられその名前で呼ばれますが、これを見ますと、小学校から集合や位相的な見方、n進法、剰余系の基礎、確からしさ、などを導入し、現行の2倍ほどの内容と時間を割り当てていた「現代化」の後の学習指導要領のキーワードは「基礎基本」、「ゆとりと充実」、「新しい学力観(知識・技能より関心・意欲・態度をより重視する)」、「(変容する社会に)生きる力」と変わってきました。算数・数学でいえば、教科で教える内容が半減し、その分教科の数が増えてきました。「薄く幅広く」という感じです。

 この変容は、背景に、工業化から情報化へという流れがありました。情報化・global化・環境問題・少子高齢化等によって教えるべきといわれる内容が急速に広がってきました。また、「知識の寿命」、「創造性」がいわれ、生涯学習の立場から、「主体的・自律的な学習態度」の育成が叫ばれ、個別の教科の学習よりも関心・意欲・個性重視等による「総合的学習」への期待が持たれるようになりました。こうして、情報化への変容の時代に特徴的な教育課題の一つ「教えるべき内容の広がりと児童・生徒の多様化対応に追われた授業時間数の減少」が表面化してきました。この傾向はいわゆる先進八カ国G8の国々においても同様なことが言えます。OECDが行っているPISA学力調査では、2000年時点では、G8の国がかなり上位を占めていた中学2年生学力調査では、2003年、2006年と時代が進行していくうちに、カナダ(横ばい)、日本(1位、6位、10位)を除いたG8の国々の平均値は、他の諸国に比べ凋落の一途をたどっています。これは、先進国の学力が低下したというよりも、シンガポール、香港、台湾、韓国などの東アジアの国々の台頭、フィンランド、カナダ、ニュージーランド等の安定した国々の善戦といったことがあり相対的にG8の国々が順位を大幅に下げたといえます。これを別の観点からみると、先進国の教育改革が今もって「情報化を抑え込んでいない」ということを示していることになります。

 1970年以降、教育をめぐるさまざまな議論の中で、この社会を、グローバル社会、高度情報通信社会、持続可能社会、知識基盤社会等々の言葉で表現されてきました。しかし、私は、この間の一連の教育界の変容をとらえるのに、この社会を「情報システムによって支えられている社会(略して、情報システム化社会)」という名前の方が、実態をより鮮明に表わしているように感じます。

 今度の新学習指導要領の成立の過程の種々の議論の中で、日本の子どもたちに関して懸念されたことがあります。それは、学力低下といわれながらも、国際的に見てもある程度の学力を保っている日本の子どもたちが、「いま何のために数学を学んでいるか」わからなくなっているのではないかということです。そのために、国際的な調査でも、「数学の学習に関する積極性」とか、「自信」に対してかなり低い割合にとどまっているということです。

 また、国内の学力調査でも、「〜について説明しなさい。」、「別な表現で表わしなさい。」という点での「無答率」が上がっています。このことから、「与えられた問題を個人で黙々と解く練習をしているが、そのことが現実と結びつくことはなく、また、仮説を立てて他人と議論し合うということもない。」という実態が浮かび上がってきます。それは、次のことと無関係ではないかと思います。社会がどのようにして動いているのか、自分の持っている「ケイタイ」がどのようにして機能しているのか、コンピュータでどうして通信ができるのか、等々のことは、普通の人間にとってはブラックボックスの彼方にあります。それを作っている人がいて、そうした人がいなければ機能しなくなる。という認識でさえ、普通の文科系の学生では、まともに考えてはいないでしょう。

 今回の指導要領の成立の過程では、たんに、個性重視だけでなく、お互いに意見を交流すること、ともに作り上げることの重要性が指摘され、さらに、言語活動の充実ということで、数学的な言語である図、表、文字・記号、グラフなどを使って表現し、説明することの大切さが指摘されています。しかしながら、それ以上に、情報システム化社会という観点を大切にして、次のようなことを小中高校生さらには大学生へ教え、これからの社会を自分も動かしていくのだという気概を持たせることが必要ではないかと思います。

 それには、この社会がどのようにして動いているのか、それは誰が、どのようにして作っているのか、特に、今日の社会を動かしている情報システムとは、あくまで人工的なシステムであること、さらには、ものごとをシステムとしてとらえるとは?、社会がどのようなシステムで動いているのか? システムを作る人間として必要な能力・倫理感とは、等々について教えていくことが必要であると感じています。

 現在、情報教育の分野では、情報リテラシー、ICTの活用、情報セキュリティ、情報モラルなどの教育がされていますが、今回の教育課程の改定の中で時間数が削られてきています。情報教育に対して言わせてもらえれば、上記のものにとどまらず、「社会を動かしている情報システムとは?」といった観点からの思い切った方向転換が必要であると思っています。今回の教育課程では、情報教育は教科連携で! という流れが残されています。この辺をてこにして再生を図ることも必要ではないかと思います。

 21世紀のこの情報社会の変容に対応して、ここ数年の間に様々なところで、将来の教育のあるべき姿に関する提言がされています。そのうちの一つに、OECDから出されたリテラシー、情報リテラシー、数学的リテラシー、科学的リテラシーという名の下で、この21世紀の社会を生きるために誰もが必要とされる基礎的能力(Competency)とは何か、ということが議論されるようになってきました。それは、現在教育現場でなされている、読み書き算数(3R's)のレベルから一歩出た基礎能力を探ろうとしている動きともいえます。

 「国破れて山河在り、城春にして草木深し」という言葉がありますが、農業化の時代には、戦争で壊滅状態になっても、自然界がおのずと復元してくれましたが、そして誰もが、自然に対置する方法を教わっていました。しかし、人工的な高度な情報システムによって形成されている今日の社会では、システムが壊れる事態が起こったときには、どのようになるのでしょうか。今年夏の数学教育学会の研究会に芳賀正憲氏に来ていただき、様々なお話を伺いましたが、情報システム社会に向けた人材育成の視点が、これからの教育の重要な課題であるということを再認識いたしました。教育とあまりかかわりのない本学会の方々にかってな放言をしてしまったかもしれません。失礼いたしました。