情報システム学会 メールマガジン 2012.1.25 No.06-10 [7]

連載 情報システムの本質に迫る
第56回 数学者の 「社会への提言」 (新)

芳賀 正憲

 「日(ひ)出(いづ)る処(ところ)の天子、書を日(ひ)没(ぼっ)する処(ところ)の天子に致す。恙(つつが)なきや」という有名な国書を中国に送った日本の王は、7世紀前半の中国の歴史書『隋書』で、妻と後宮をもつ男性として書かれています。一方、8世紀初頭に日本で完成した『古事記』『日本書紀』では、当時わが国の主権者は「推古天皇」、すなわち女性です。この矛盾に対して江戸期以来、さまざまな解釈がなされてきましたが、昨年12月、数学者の半沢英一博士は『天皇制以前の聖徳太子』(ビレッジプレス)を著され、最新の知見にもとづいて、関係する歴史情報の信頼性を厳密に評価した上で、当時の主権者が、仏教にもとづく社会革命で活躍した「聖徳太子」であることを立証されました。

 同書ではまた、3世紀半続いた前方後円墳時代が仏教革命により「聖徳太子」の治世に移行、さらに大化の改新によって神道にもとづく政治が復活、天武の時代に至って、今日に続く天皇思想と神武以来の天皇の系譜が創作され、一方で主権者としての「聖徳太子」が隠ぺいされた経緯が、社会システムの精密な状態遷移モデルとして説明されており、先に出版された同博士による『邪馬台国の数学と歴史学』(ビレッジプレス)とともに、画期的な歴史書として注目されます。
 中でも特筆されるのは、同書で「天皇の思想」が明らかにされたことです。今まで日本の古代史学界は、天皇制の前にも、『隋書』と『古事記』『日本書紀』の間の主権者矛盾の前にも立ちすくんできたとされています。半沢氏は、記紀の基本概念ともいうべき「天皇の思想」の解明により、見事にこの壁を突破されました。これは、産業界の諸問題と情報システム学体系化の課題の前に立ちすくんでいる情報システム関係者にとっても、大きな示唆と励ましを与えるものです。

 半沢氏によると、後に「聖徳太子」と呼ばれるようになった人物の実像を探るため、歴史情報を信頼性によってランク付けし、ランクが上位の情報をもとに人物モデルを構築する作業を行なった先駆者は、「米欧回覧実記」で著名な歴史学者・久米邦武です。
 久米は、「聖徳太子」に関わる史料を次のようにランク付けしました。
 甲種 確実
   (1)法隆寺薬師如来像光背銘   (2)伊予湯岡(ゆのおか)碑文
   (3)天寿国繍帳(しゅうちょう)銘 (4)法隆寺釈迦三尊像光背銘
   (5)憲法十七条
 乙種 半確実
   優等 『上宮(じょうぐう)聖徳法王帝説』
   平等 『日本書紀』
   劣等 『鑑真和上東征伝』など6件
 丙種 不確実
   『神皇正統記』『大日本史』など5件

 天皇家の正史『日本書紀』の信頼性をかなり低く評価しているのは見識ですが、肝心の『隋書』が評価の対象になっていません。その他、評価が必要と思われるのに挙げていない史料がいくつかあります。また、現代の知識では評価を変えるべき史料があり、さらに久米がランク付けしたあとで新たに発見された重要な史料があります。

 そこで半沢氏は、最新の知見をもとに、「聖徳太子」関係情報を久米にならって次のようにランク付けしました。
 甲種 確実
   (1)『隋書』倭国伝  (2) 法隆寺釈迦三尊像光背銘
   (3) 伊予湯岡(ゆのおか)碑文 (4) 憲法十七条
 乙種 半確実
  優等 『上宮記』
  平等 (1) 『古事記』  (2) 『日本書紀』
     (3) 『上宮(じょうぐう)聖徳法王帝説』
     (4) 法隆寺薬師如来像光背銘
     (5) 『元興寺伽藍縁起』所収「金石文」
 疑問が残る史料  天寿国繍帳(しゅうちょう)銘

 半沢氏のランク付けでは、久米が甲種確実のトップに挙げた法隆寺薬師如来像光背銘が、乙種半確実の平等にまで下げられました。光背銘ではこの仏像が607年の製作となっていますが、仏像の様式や鋳造技術のレベルなど多くの要因から、製作は7世紀末期のことであり、銘文に書かれた由緒も偽造の可能性が高いことが今日判明しているからです。
 半沢氏が4つの史料を甲種確実としたのは、次の根拠によります。
 『隋書』については、隋の後継・唐の太祖が長安に無血入城し、隋の記録類をそのまま引き継いだため、執筆者はそれらを直接利用することができました。その中には、日本から隋に送った国書や日本の使者からのヒアリング記録、隋が日本に派遣した使者の出張報告書などがすべて含まれており、信憑性がきわめて高いと判断されたので、ランクのトップに挙げています。
 一方、日本の王を男性とする『隋書』の記述は、久米の時代、信頼性に疑問の余地のなかった法隆寺薬師如来像光背銘の、「聖徳太子」を「推古天皇」の皇太子とする記述と完全に矛盾します。このため久米は『隋書』の評価を避けたのではないかと、半沢氏は推測しています。
 法隆寺釈迦三尊像光背銘は、仏像の様式、鋳造技術のレベルから、光背銘の示す623年の製作とみてまちがいないことが専門家の間で一致しています。また、実物の観察結果、追刻の可能性も認められません。伊予湯岡(ゆのおか)碑文は実物がなく文章だけが残っているのですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘とは独立して作られたと思われるのに、内容に顕著な類似性のあることから、やはり甲種確実の史料と判定されました。
 憲法17条が真作であることを疑う情報は、現時点ではありません。

 4つの甲種確実の史料から、どのように当時の日本の主権者像を復元していくことができるでしょうか。
 『隋書』では、すでに600年の記事で、日本の王が仏教の座り方である結跏趺坐をしている様子が書かれています。607年の日本の使者の口上には「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」とあり、これらと「日(ひ)出(いづ)る処(ところ)の天子、・・・」の国書から、彼が自らを「海東の菩薩天子」と自負していることは明らかだと半沢氏は述べています。「仏教を背景にした倭王」というのが、『隋書』から伺われる日本の主権者像です。
 法隆寺釈迦三尊像光背銘と伊予湯岡(ゆのおか)碑文では、「聖徳太子」と考えられる人物が、それぞれ「上宮法皇」「法王大王」として記されています。ここで「法」とは仏教のことですから、「聖徳太子」が仏教的王者であったことが明らかです。また前者の史料では、「上宮法皇」の死に対し「登遐(とうか)」という天子の崩御を意味する言葉が使われており、彼が主権者であった可能性が大であることを示しています。さらに特徴的なことは、両方の史料で「法興」という、『古事記』『日本書紀』では隠ぺいされた年号が使われていることです。「法興」とは仏教が起こったという意味と解され、半沢氏は、法興元年(591年)に「上宮法皇」が主権者として即位したと推察されています。

 『隋書』、法隆寺釈迦三尊像光背銘、伊予湯岡(ゆのおか)碑文の3つの史料は、見事に呼応して「仏教を基盤とする男性主権者」という人物像を描き出しています。このことは同時に、それぞれの史料の信頼性の高さを示していると考えられます。3つの史料を通じて、「推古天皇」の影も形も見えません。

 憲法十七条では、第二条に「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え。・・・」とあるように、仏教を至高の原理として掲げ、また第三条で王権に秩序の維持という合理性のあることを主張しています。第十二条には「国に二君なく、民に両主なし」とも書かれ、憲法十七条の内容は、仏教を基盤とした単独主権者の存在を示唆していて、上記3史料とも呼応しています。甲種確実の4史料すべてが呼応していることは、それぞれの信頼性にさらなる保証を与えるものです。

 半沢氏は、ランク付けした他の史料も含めて、各史料で日本の主権者像がどのように記述されているか分類されています。
 I 単独の仏教倭王を記す、あるいは示唆する:甲種確実の史料4件
 II 仏教倭王と神祇祭祀王としての天皇の共同統治を記す:『上宮記』
 II′ 主権者があいまい:天寿国繍帳(しゅうちょう)銘
 III 「推古天皇」の単独統治、上宮法皇の格付けなし:『古事記』『元興寺伽藍縁起』所収「金石文」
 IV 「推古天皇」の単独統治、上宮法皇は皇太子:法隆寺薬師如来像光背銘、『日本書紀』
 IV′ 本文はIVと同じだが、考える要素が残る:『上宮聖徳法王帝説』

 驚くべきは、これら主権者像の分類が、各史料のつくられた時系列の順序と概略整合していることです。これによって、6世紀末から7世紀初頭にかけて在位した仏教倭王としての「聖徳太子」の存在が、歴史の変革の中で徐々に隠ぺいされ、ついには「推古天皇」の摂政・皇太子に格下げされて記述されるようになった流れが明確になりました。

 次に半沢氏は、6世紀末、仏教倭王がどのようにして生まれたのか、また後世、仏教倭王としての「聖徳太子」がなぜ隠ぺいされたのか解明に取り組まれています。

 3世紀半ばから6世紀末まで、岩手県から鹿児島県に至る日本列島の広い範囲で、数千基におよぶ前方後円墳が造営されました。前方後円墳の起源は、吉備にあるとされていますが、やがてその中心は畿内地方に移り、長さ280mの箸中山古墳をはじめとして見瀬丸山古墳に至るまで、同時期全国最大規模の前方後円墳が次々に造られました。これらの多くが天皇陵とされていますが、もちろんまだ天皇制があったわけではなく、日本列島の広い地域を統合していた倭王が埋葬されたと考えられます。
 当時の日本列島は、中小の前方後円墳に対応する地方の中小共同体が、大規模前方後円墳で葬送されるような倭王によって、共通の宗教的意識と前方後円墳の前方部を使った共通の祭祀形式によって統合されていたと推測されています。

 しかし6世紀にはいると、地方の共同体でも中間層が台頭、多数の群集墳や横穴墓が造られ、また畿内で前方後円墳が減少し、九州で装飾古墳が盛行するなど、前方後円墳王権の地方統制力に劣化が生じてきます。王族や支配層にとっては、今までの宗教意識や祭祀形式に代わり、全国規模で新たな秩序を形成できるような、威信をもった観念体系が求められることになりました。これに応えたのが、6世紀の半ばに百済から伝えられた世界宗教の仏教です。
 一般に伝統社会に外部から新たな文化が押し寄せてきたとき、これを受け入れて改革を進めようとする派と、排除してあくまでも伝統社会の原理を守ろうとする派の間で、必ず激しい闘争が起こります。イスラム社会に西欧文明が押し寄せてきたときもそうですし、江戸末期の開国派と尊王攘夷派の争いもその典型です。
 6世紀後半の日本では、仏教を受容しようとする蘇我氏と、前方後円墳による祭祀的統合原理を守ろうとする物部氏の間で戦争まで起きました(587年)。日本書紀には、この戦争で「聖徳太子」が蘇我軍勝利のための決定的役割を果たしたことが記されています。このとき彼は14歳だったため、この記事が正しいと思う人はあまりいません。しかし半沢氏は、「聖徳太子」が23歳で「法王大王」に即位していることから、彼が若くして大きな貢献をした可能性があると指摘されています。このようにして、蘇我馬子、「聖徳太子」の叔母(推古)、「聖徳太子」を実力者とし、仏教を指導理念とする政権が誕生しました。
 591年、6年前に亡くなった「敏達(びたつ)天皇」の遺体の処遇が決まりました。母親の陵への合葬です。前方後円墳王権の倭王として即位したにもかかわらず、その造営がなされなかったという、時代を画するできごとでした。これは半沢氏の重要な発見であり、半沢氏は、この年を画期として法興の年号が制定され、多くの改革の詔勅が出され、また先述したように、上宮法皇も即位したと推察されています。
 605年、上宮法皇は、飛鳥から17kmも離れた斑鳩に移りました。ここには、斑鳩宮をはじめとして少なくとも6か所の宮殿跡があり、宮都であったことを伺わせます。

 622年に上宮法皇がなくなったあと、推古が神祇祭祀王として倭王になったと考えられています。一説では、法皇には蘇我馬子の子・蝦夷(えみし)や、その子・入鹿(いるか)がなり、一時期王権を壟断していたとも言われています。上宮法皇の嫡男は、蘇我入鹿の攻撃を受けたのに対し、自分たちが戦えば人民を害することになると語って、一族とともに殉教しました。
 645年、中大兄皇子(のちの「天智天皇」)が中臣鎌足と計って蘇我入鹿やその父・蝦夷を亡ぼし、「大化の改新」を行ないます。このクーデターでは、血統の権威を否定する仏教を王権の指導原理とすることを止め、神道を復権することが大義名分にされたと、半沢氏は述べています。
 「大化の改新」後、672年の壬申の乱で「天武天皇」が勝利するまで、さまざまな政治的事件がありましたが、この間王権は、支配イデオロギーを求めて模索を続けました。神道(神祇祭祀)を復権したといっても、もはや前方後円墳による祭祀的統合イデオロギーに説得力はなく、新たな王権の根拠づけを必要としていたからです。
 そこで「天武天皇」は、天皇の由来、永続性を記し、自らの王権を正当性する歴史書の作成を企図して、『古事記』の編纂を命じ、さらに682年、『日本書紀』編纂のワーキンググループを発足させます。両者はそれぞれ、712年、720年に完成、これらの作業を通じて、国家支配の根拠を示す「天皇の思想」が確立されました。

 「天皇の思想」とは、天皇が、「天から九州に降り立った天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫が大和に東征し、以後その子孫が前方後円墳時代を通じて君臨することが断絶せずに続いた、神聖な王家の王」であることをもって、それを国家支配の根拠として主張するものです。
 まったく性格の異なる前方後円墳時代の倭王を天皇の祖先として位置づけ、例えば長さ486mの大山古墳を仁徳天皇陵として広めることは、天皇の偉容を示し畏怖の念を抱かせる、巧みな効果を発揮することになりました。
 しかし実は天皇の概念は、上記のような「天皇の思想」によってはじめて創出されたものであり、天武天皇が初代天皇で、記紀以前に天皇は存在しなかったと半沢氏は断言されています。
 「天皇の思想」を正当化するため、『古事記』と『日本書紀』では、少なくとも3つの大きなフィクションを創り出しました。
 第1は、初代の「神武天皇」から9代の「開化天皇」まで、歴史上のモデルをもたない架空の人物を設定したことです。
 第2に、第10代「崇神天皇」から第13代「成務天皇」まで、非血縁だったのに父子継承とした創作の可能性があります。
 第3が、仏教倭王としての「聖徳太子」の隠ぺいです。

 世界宗教・仏教の本質は、「縁起」とか「空」という言葉に象徴されるように、すべての存在が他者との関係において成立しているという、相対的な存在論にあると半沢氏は考えました。このような仏教において、「神聖かつ永遠の王家」などという絶対的な存在が認められるわけがありません。釈迦も「生まれによって<バラモン>(貴い人)となるのではない」と述べています。
 このような仏教によって倭王になった人物を、天照大神以来の天皇系譜の中に認めるわけにはいきません。これが、仏教倭王としての「聖徳太子」が、記紀の中で隠ぺいされた理由であると半沢氏は結論づけられています。

 わが国は、15年戦争による壊滅で神話の恐ろしさを十二分に知ったはずなのに、戦後再び神話を信じて、福島の過酷事故を招いてしまいました。日本人は、神話に弱い一面があるようです。
 半沢氏は、長年歴史学上の壁になっていた天皇神話と聖徳太子神話の分析に取り組まれ、3世紀から8世紀にわたるわが国社会システムの状態遷移モデルを一新される中で、その構造を明らかにされました。歴史学における大きな成果であると同時に、多岐にわたる史料情報を厳密に検証した上で、推論を積み重ねて、説得力の高いモデルを組み立てられる半沢氏のアプローチは、情報システム関係者にとっても優れたテキストになります。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からも、ご意見を頂ければ幸いです。