情報システム学会 メールマガジン 2011.10.25 No.06-07 [7]

連載 情報システムの本質に迫る
第53回 原子力ムラはなぜ生まれたのか(承前)

芳賀 正憲

 わが国には、中央と地方に2つの原子力ムラがあり、地方のムラを主題に東大大学院の開沼博氏が、その構造と特質を歴史社会学的に分析して、福島で過酷事故が起きる前に大部の論文にまとめられていたことは、前号のメルマガで紹介したとおりです。
 それでは中央の原子力ムラはどのようにつくられたのか、かつてわが国の原子力政策を担った人たちが、福島事故のはるか前、1985年から9年間にわたって本音で語り合った貴重なテープが残されています。先月NHK・ETV特集「原発事故への道程」(前後篇)で報道された内容によると、米国のマンハッタン計画が科学者のイニシアティブで進められたのに対して、日本の戦後の原子力政策は、A級戦犯、あるいは国家主義的な思想をもった政治家が、研究者たちの慎重論を置き去りにして猪突的に推し進めていった点に特徴があります。一方、原子力関係の学者や技術者など専門家は(情報システム学も同様ですが)、今日に至るまで米国から輸入した知識を利用するだけで、基本的なところから技術を組み立て本質的に問題を解決する能力をもたず、結果として安全神話の定着に手を貸し、過酷事故をもたらすことになりました。

 戦後、最も早く原子力の導入に向けて動き出したのは、元・東条内閣の閣僚でA級戦犯だった後藤文夫氏です。彼は1948年末、3年間の拘留ののち不起訴で釈放されるとすぐに、日本がエネルギーとして原子力に注目すべきことを主張しました。1952年に(財)電力経済研究所を設立、翌年、原子力平和利用の建議書を出します。
 学界では、1952年講和条約の締結を受け、茅誠司東大教授が阪大の伏見康治教授とともに原子力研究の再開を学術会議で呼びかけますが、軍事利用される危惧から広島大学の三村剛昂(よしたか)教授が強く反対、一座の意見も反対が大勢を占め、政府への申し入れは取りやめになりました。
 1953年12月、原子力発電で先陣を切ったソ連に対抗する形でアメリカのアイゼンハワー大統領が国連で「平和のための原子力」演説、これに日本の政治家たちが即座に反応し、政界の青年将校中曽根康弘氏を中心に1954年3月、2億6千万円の原子力予算案を作成、翌月2億3千5百万円の予算が成立します。研究者の議論を飛び越え政治主導で突然降ってきた予算に、当時通産省の官僚たちは何に使ってよいか分からず、わずか6千万円使っただけであとは余してしまったといいます。
 その後、使い道がはっきりしないのに原子力予算は急増、1958年には77億円を超えました。
 1954年3月、ビキニ環礁における米国の水爆実験で第5福竜丸をはじめ多くの船員が被ばく、半年後、久保山愛吉・無線長が亡くなります。大量のマグロの汚染もあって国内はパニック状態になり、猛烈な反核運動が起こりました。
 このような中で、日本の原子力政策の推進に大きな役割を果たしたのが、戦後A級戦犯として2年間拘留ののち不起訴で釈放され、当時、読売新聞社主、日本テレビ社長を務めていた正力松太郎氏です。
 彼は、核燃料のことをガイ燃料と発音し、「中味は分らなくてもやる必要があるのだ」と国会で答弁するなど、知識は少なかったとされていますが、プロ野球、民間テレビ放送に次いで原子力に情熱を燃やします。
 彼がまず手がけたのは、反核運動に対する原子力平和利用の一大キャンペンです。米国の諜報機関に提案し、1955年5月、著名な科学者(実は原子炉メーカーの社長)を団長とする使節団を来日させ、満員の聴衆に「原子力は無限の未来を約束する」と演説させます。同年秋には原子力平和利用博覧会を全国11か所で開催、新聞・テレビを使った大宣伝もあいまって300万人を集め、一大ブームを巻き起こします。当時の読売新聞には、原子力により電力料が2千分の1になると明記されています。
 通産官僚たちは、大宣伝による、反核からの世論の急激な変化に目を見張りました。平和記念資料館を博覧会の広島会場とすることに強く抗議していた、原水禁の森瀧市郎氏は、博覧会後の世界大会で「原子力の平和利用を支持する」と宣言、また、学術会議で原子力研究反対の急先鋒だった広島大学の三村剛昂教授は、キャンペンの後、沈黙に転じました。メルマガの8月号で述べたマスメディアによるマインドコントロールの恐ろしさがよく表れた事例です。

 1955年、正力氏は政治家に転身、原子力担当大臣、初代原子力委員長に就任し、「5年以内に実用的な原子力発電を始める」と宣言します。原子力委員には学界から湯川秀樹博士が参画、「原子力発電の実現は急いではならず、基礎研究から始めるべきだ」と主張しますが、「外国から開発済みの原子炉を輸入すべき」とする正力氏に退けられ、湯川博士は1年耐えたのち委員を辞任します。実際に米国や英国から輸入した原子炉は、開発済みとは名ばかり、多くの欠陥をもっていて、さまざまなトラブル、最終的には福島で過酷事故を起こすのですから、湯川博士の主張こそ慧眼だったのですが後の祭りです。
 「基礎研究より早期実現」のかけ声のもと、湯川博士の辞任もあって多くの研究者が国の原子力政策に距離をおくようになり、代わって商社マンやメーカー、ゼネコン、銀行など経済界の人たちがなだれを打って参入、正力氏を中心に政財界一体となって、科学的観点が軽視されたまま、原子炉の早期導入が進められていくことになりました。

 1957年8月、技術習得と人材育成のため米国から輸入した研究炉、JRR−1が東海村で運転開始されます。正力氏がスイッチを入れましたが、直後からリレーが次々に破損し、建屋が地下水であふれるなどトラブルが続出しました。リレーは神田のジャンク屋で電話用を買ってきて取り換え、地下水は手押しポンプで排水しましたが、あとで地元の人に聞いたら、建設前に生えている松の木の高さを見たら、地下水脈の位置は一目で分かるではないかと言われました。
 ここでは、開発済みとされる輸入原子炉の機能品質欠陥、立地地域の自然環境の厳密な調査の必要性など、のちに福島で直面しなければならないリスクが、すでにはっきりと表れています。

 次に正力氏は、商業用原発の建設に動き出します。1957年11月、正力氏が主導して日本原子力発電(株)が設立されました。折から英国で世界最大のコールダーホール原発が稼動していて、火力に比べ発電コストが低いとされていました。そこで、1959年12月、コールダーホール型炉の正式購入契約が締結されました。
 実は官僚が調査したところ、わが国の場合この原子炉は、火力よりコストが高くつくことが分かりました。英国では国営化で石炭の値段が高く、一方日本では火力発電の効率が英国よりはるかに高かったからです。また、英国では発電で生じるプルトニウムを政府が核兵器用に買い上げており、この利益もコストから引かれていました。
 これらのことを正力氏に説明に行ったところ、「コッパ役人は、黙っとれ!」と言われました。官僚の証言によると、推進の過程で正力氏から「安全第一」の言葉はなく、「進めや進め」だったとのことです。
 この原子炉ではさらに、耐震設計が全くなされていないという深刻な問題が発覚しました。3年がかりで対策を施し、ようやく1966年7月、国内初の商業用原発が東海村で稼動しましたが、送電開始早々緊急停止するなどトラブルが続出、修繕と点検の費用は毎年1億〜6億円に及びました。
 このような実態から、その後の導入ではコストがより厳しく問われるようになり、電力会社では、むしろ原発の建設を躊躇するようになりました。

 長期計画のもと原発の増設をめざす国と、電力会社の認識にギャップがある中、米国で新たに、建設費が安く高出力の軽水炉型原発が開発され稼動していることが報じられました。各電力会社はこぞって米国の軽水炉メーカーの主催する見学ツアーに参加、そこで、設計・製造・据え付けなどすべての工程をメーカーに任せるターンキー契約方式に引きつけられます。コストの安い軽水炉の登場が、それまで躊躇していた電力会社が原発建設に踏み出すきっかけになりました。

 1966年12月、東京電力は福島に建設する東電初の原発について、米国GE社とターンキー契約を締結します。このとき決め手になったのは、スペインも同じものを発注していて設計費などを安くできること、格納容器が小さく(したがって危険!)建設費が安いことなど、経済性だけだったと当時の関係者は語っています。
 1967年1月、福島第1原発の建設を開始。用地の高さは、もともと35mあったのですが、岩盤に炉を設置し耐震性を高めること、GEのポンプでは冷却用の海水を35mまで上げられないことから、海抜10メートルまで掘り下げられました。ターンキー契約のため、ポンプの仕様変更をすると著しく割高なものになるからです。
 このとき、非常用ディーゼル発電機が海側タービン建屋の地下に設置される計画になっていたことは見逃され、見直しされませんでした。
 このようにして、大地震で送電が止まり、10m以上の津波が襲来したとき全電源が喪失するという致命的欠陥が、福島第1原発に埋め込まれました。1971年3月、福島第一原発の営業運転が開始されます。

 「原発の早期導入を国策として進めた国と財界、基礎から研究すべきだとの主張を退けられた科学者、経済性を優先せざるを得なかった電力会社、それぞれの思惑の中でひとり置き去りにされたのが安全性」と、NHK「原発事故への道程」のナレーションは伝えています。

 原発の安全神話の定着については、専門家のまちがった証言に疑問を抱かず判決を出したことから、司法にも大きな責任があります。
 1973年8月、四国電力が愛媛県の伊方町に建設を進めていた原発について、住民から国の設置許可の取り消しを求める提訴がなされ、国が許可を出した根拠と審査のときに想定した事故の規模が問われることになりました。
 国側の安全審査の責任者(東大教授)は、放射性ヨウ素の場合、事故のとき外に出るのは994キュリーで、原子炉全体の1万分の1程度だと証言します。冷却水が失われてもECCS(緊急炉心冷却装置)が働くのでこの程度に止まるというのが根拠です。ECCSが働かない確率は100万分の1程度であり、このレベルの事象は想定する必要がないと断言します。
 原告側弁護士が100万分の1でも起きることがあるだろうと食い下がりますが、教授は「起こらないことの信頼性はどの程度かということの答えである」とかわします。この教授はのちに著書の中で「無視できる程度のリスクは受容可能であるということで、原子力発電の利用が容認・推進されるということの認識が大切である」と記しています。
 国が100万分の1という原子炉事故確率の裏付けとしたのは、前号のメルマガでも紹介した、原発で死亡事故の起きる確率は50億分の1として原発が安全であることを強調するMIT教授のレポートです。このレポートは、設置許可審査にも関わった日本原研の職員が日本に紹介したものですが、彼は「炉心溶融の確率は100万年に1回と自分も言っていた」と述べています。
 現実にはスリーマイル島から福島まで32年間に3回の炉心溶融が起きているのですから、100万分の1、あるいは100万年に1回というのは、大変な認識の誤りと言わざるを得ません。
 伊方裁判では、大地震の可能性も論議されました。近くに活断層である中央構造線が走っているのですが、国の原子炉安全専門審査会の報告書では、触れられていませんでした。これについて国側の証人(別の東大教授)は、「はっきりとした活断層として地震を起こす証拠がないと報告を受けている」と証言しました。しかし報告をした専門家は、この証言を虚偽だと断じています。

 国側証人のいい加減さに驚きますが、1978年4月、伊方原発訴訟に一審の判決が出て、原告の請求は棄却され、あわせて、原発の安全性の判断は高度の専門的知識を必要とし、また原子炉の設置は国の高度の政策的判断と密接に関連することから、原子炉の設置許可は、国の裁量行為に属することが示されました。
 1979年のスリーマイル島事故の後開始された控訴審で、原告側は、起きないと言っていた炉心溶融が起きた以上原発許可は無効と主張、一審の国側証人(東大教授)の再出廷を求めますが、国側は、審理は尽くされているとして結審を求め、裁判長は弁論を終結します。1984年12月、控訴棄却、原告はさらに上告します。
 1992年10月、最高裁は上告を棄却した上で、あらためて「設置許可は、各専門分野の学識経験者などを擁する原子力委員会の科学的・専門技術的知見にもとづく意見を尊重して行なう総理大臣の合理的判断にゆだねる趣旨と解するのが相当」と明示しました。
 その学識経験者の信頼性が乏しいのですから、住民としては立つ瀬がありません。原告側弁護士は、「最悪の判決。大きな原発事故が起きたときは、最高裁も共同して責任をとらねばならない」とコメントしています。これ以降、原発訴訟で原告勝訴の事例は1件もありません。福島で過酷事故が起きた以上、最高裁にはいよいよ責任をとって貰わねばなりません。
 伊方訴訟の最高裁判決を受け、原発の安全神話はさらに広く定着していくことになりました。

 裁判における国側証人の発言を見ても、また、技術者が輸入設備の仕様の不備を見抜けず、そのまま受け入れて大きなトラブルに直面する状況を見ても、原発の導入に関与した学者や技術者などわが国専門家のレベルの低さに愕然としますが、かつて原子力政策を担った官僚たちは、20年も前に本音で語り合ったテープの中で、次のように述べています。

「電力の技術屋さんは、一般的には技術のユーザだということですね。電話をかける技術屋さんが非常に多いんじゃないか。自ら技術の改良とか基本的対応というのを積極的に取り組むようなトレーニングを受けていない」
「基本のところは自分でデザインしたり開発したりをしたわけじゃないですから、運転とかメンテナンスやきめ細かいところの改良は得意だが、根っこまではいっていくと技術基盤が十分強いのかなと(疑問がある)」

 10年間原子力ムラのメーカー・電力関連研究機関で活躍ののち独立して、現在、環境エネルギー政策研究所所長を務められている飯田哲也氏は、7月に上梓された共著『「原子力ムラ」を超えて』(NHK出版)の中で、日本の原子力における最も本質的な欠陥として、次の2点を挙げています。
(1) 安全審査が実質的ではなく空疎であること
(2) 技術の本質が底抜けであること

 安全審査は分厚い安全審査書にもとづきますが、電力会社に作成能力がなく、基本的にはすべて原子力メーカーが作り、表紙だけ電力会社名に書き換えています。
 そうそうたる専門家から成る国の安全審査会は、わずか2時間程度のセレモニーになっていて、実質的には、国の担当官が事前に詳細なレビューを行なっています。ところがこのレビューが、「津波高さは大丈夫か」というような本質的な問題を考える姿勢にはなく、反対派やマスコミに突っ込まれないための字面のチェックに終わっているのです。
 技術の本質に関してはさらに深刻で、原子力技術を導入して50年にもなるのに、日本の原子力メーカーは、いまだに原子炉の基本設計パッケージを作ることができていません。原子炉製造の機器基準も、アメリカ機械工学会が長年かけて発展させてきたASME基準をそのままコピペして経産省告示501号として用いています。

 日本の原子力技術は、今日に至るも米国からの表面だけの借り物で、内実が空洞というのが実態であり、このことが福島の過酷事故をもたらす最大の要因になったのではないかと考えられます。

 ひるがえって情報システム学においても、同様の問題構造があります。
 学者や技術者など専門家が、情報システムの真の概念的基礎から考え抜いてこなかったため、いまだに体系化ができず、ほとんど米国由来の技術を利用しているだけです。教育に際しては、米国で数年おきに改定されるカリキュラムの動向を見て、これをコピペして日本版カリキュラムに焼き直しています。
 問題が最も顕著に表れるのが、本来、体系の基本的なエッセンスを抽出して組み立てなければならない大学の一般情報教育や高校の教科「情報」のカリキュラムで、本質から大きく外れたものになっています。

 学会として、原子力ムラの歴史を他山の石としながら、情報システムムラの改革をはかっていくことが肝要と思われます。

この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。