情報システム学会 メールマガジン 2011.9.25 No.06-06 [5]

連載 オブジェクト指向と哲学
第9回 知識とは何か(3) - 想起説

河合 昭男
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~Kawai

 前回は「知識とは何か(2)」と題して「AはBである」を、Aが第1実体か第2実体かで認識が異なることをUMLでモデリングしながら考えました。前者はさらにBをクラスと捉える方法の他、パワータイプのインスタンスと捉える方法があり、その違いをUMLで示しました。人間の自然な認識方法は案外パワータイプ方式ではないかなと感じました。この点については別途考察したいと思います。

 今回は、プラトンの想起説について考えて見たいと思います。想起説は場面を変えて何度も出てきます。ソクラテスは輪廻転生を信じ、自身が毒杯で死ぬときも少しも恐れず、これで自分の魂は肉体の監獄から解放され、すばらしいイデア界(天上界)にやっともどれるのだと信じ、何も悲しむことはないのだとしました。また、この世の人生で学んだ知識の他にイデア界で過去に学んできた知識は魂が覚えており、人はそれを何かのきっかけで想起することができるのだと考えました。

メノン
 今回テキストとするメノン[1]のテーマは徳です。メノンが「徳は教えられるか」とソクラテスに質問しますが、メノンの期待に反して「自分はそもそも徳とは何であるか知らない」と答えるので、逆にメノンがそれを説明することになります。ソクラテスのするどい質問に、やがてメノンはじつは自分も徳が何であるかわかっていなかったことに気付かされます。
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メノン(以下メ):こういう問題に、あなたは答えられますか、ソクラテス。人間の特性というものは、はたしてひとに教えることのできるものであるか。それとも、それは教えられることはできずに、訓練によって身につけられるものであるか。それともまた、訓練しても学んでも得られるものではなくて人間に徳が備わるのは、生まれつきの素質、ないしはほかの何らかの仕方によるものなのか...。

ソクラテス(以下ソ):...(省略)...。君がこの土地の誰かをつかまえて、いまのような問をかけるつもりになってみれば、それがわかるだろう。きっと誰でもわらって、こう答えるだろうから。「客人、どうやら君には、ぼくが何か特別恵まれた人間にみえるらしいね。徳が教えられうるものか、それともどんな仕方でそなわるものなのか、そんなことを知っていると思ってくれるとは!だがぼくは、教えられるか教えられないかを知っているどころか、徳それ自体がそもそも何であるかということさえ、知らないのだよ。」かく言う僕自身にしても、メノン、同じことだ。
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 予想外の答えに、この後メノンが徳について説明しますが、段々とソクラテスの質問に答えらなくなり、結局自分も良く分かっていなかったことを発見します。
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ソ:魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起こすことができるのは、何も不思議なことではない。…(略)…つまり探究するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならない。
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 半信半疑のメノンに、ソクラテスはメノンの従者を使って想起の実験を試みます。幾何を全く学んだことがないメノンの従者に、与えられた正方形に対してその面積が2倍となる正方形を作図させ、試行錯誤を繰り返しながらもついにその方法を発見します。
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ソ:誰かがこの子に教えたからというわけではなく、ただ質問した結果として、この子は自分で自分の中から知識をふたたび取り出して、それによって知識をもつようになるのではないかね?
メ:そうです。
ソ:しかるに、自分で自分のなかに知識をふたたび把握し直すということは、想起するということにほかならないのではないだろうか?
メ:ええ、たしかに。
ソ:その場合、この子が現在もっている知識というのは、以前にいつか得たものであるか、もしくは、つねにもちつづけていたものであるか、このどちらかなのではないだろうか?
メ:ええ。
ソ:で、もしつねにもちつづけていたというほうの前提をとれば、この子はまた、つねに知識をもっている人であったということになるし、他方また、いつか以前に得たのだとしても現在のこの生においてそれを得たことにはならないだろう。
…(略)…
ソ:しかるにこの子がそうしたいろいろの思わくを得たのは、現在のこの生においてではないのだとすると、いまやこういうことが明らかではないかね−すなわち、彼はこの生涯以外の他の時において、すでにそれをもっていたのであり、学んでしまっていたのであるということが。
メ:明らかにそうです。
ソ:そしてそのような、生涯以外の他の時というのは、この子が人間として生まれていなかったときではないだろうか?
メ:ええ。
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 この後、徳を想起するための探究が始まる。始めに2つの仮説をたてます。
 (1)知識は教えられるものである。
 (2)徳は知識である
 このふたつの「である」は前回の議論より「AはBである」パターン(2)のケースとして抽象概念(=クラス)の汎化関係で表すことができる。(1)と(2)を連結すると次の図1のように表現できる。つまりメノンの最初の質問「徳は教えられるか?」にたいしてYESと言っています。

図1「徳は教えられるか?」について仮説モデル
図1「徳は教えられるか?」について仮説モデル

 ところが、この仮説モデルを一旦認めたあと、ソクラテスは疑問を出す。徳が教えられるものなら、その教師と弟子がいるであろう。ここでソフィスト批判が述べられたあと、アテナイの徳ある人を何人か挙げ、その子がいずれも徳ある人とは思われていない例を挙げる。徳が教えられるものなら、どうして父が子に教えないことがあろうか。結局じつは教えることはできないのだと結論付け、最初のモデルを破棄してしまう。(1)は前提条件とし、(2)の仮定が正しくなかったのだとします。

知識と思わく
 最初のモデルがゆき詰まったので、次にふたつの前提を自明のこととして議論を展開する。
 (3)徳ある人はすぐれた人である。
 (4)すぐれた人は有益な人である。

図2 前提モデル
図2 前提モデル

 ここで汎化関係最上位の有益な人とは何かを探究する。それは我々の行為を正しい方向に導くものである。今までは正しき行為に導くものは知識であるとしていたが、前半の議論でかならずしもそうではないとなった。
 次に、知識がなくても正しい思わく(思いなし)があれば人を正しき行為に導くという仮説の吟味に入る。ちなみに、知識と思わく、英語版にはknowledgeとopinionと訳されています[2]。

ソ:正しい思わくというものも、やはり、われわれの中にとどまっているあいだは価値があり、あらゆるよいことを成就させてくれる。だがそれは、長い間じっとしていようとはせず、人間の魂の中から逃げ出してしまうものであるから、それほどたいした価値があるとは言えない。

 思わくは縛り付けられると知識になり、永続的なものとなる。知識は縛り付けられているという点において思わくとは異なる。

 知識と思わくをオブジェクト指向の考え方に当てはめるなら、知識はクラスの属性にあたり、思わくは振る舞いに当たりそうです。つまり知識は静的な情報であり、思わくは動的な振る舞いと考えられそうです。情報は固定的なものですが、振る舞いは状況により異なります。

図3 知識と思わく
図3 知識と思わく

ふたつの知識
 以上をまとめてみます。

・各個人の知識は2種類ある

(1)この世の経験や学習により得られた知識
(2)転生輪廻を繰返し、前世およびイデア界で学び魂に蓄積された知識

・想起説

(2)の知識は想起することにより(1)の知識に加えることができる。

・思わく

有益な人は、知識と正しい思わくを持っている。(1)の知識は人に教えられるが、思わくは教えられない。だからアテナイの有益な人々、優れた人々も自分たちの子に大切な思わくを教えられず、有益な人を育てられなかった。

 では思わくは教えられるものでもなく、生まれつきでもなければどのように授かるのか、そもそも徳とは何であるかは依然として未解決のままメノンは終了します。

 参考書籍
 [1]プラトン著、藤沢令夫訳、メノン、岩波文庫、1994
 [2]Plato, Protagoras and Meno, Penguin Classics


ODL ObjectDesignLaboratory,Inc. Akio Kawai