情報システム学会 メールマガジン 2010.1.1 No.04-10[15]

連載 情報システムの本質に迫る
第31回 情報システムの起源

芳賀 正憲

 先月開催された当学会全国大会における同志社大学・金田重郎教授の発表は、システム開発方法論の中核技術である概念データモデリング(CDM)に対して、哲学からの再構築を提言されるという画期的なものでした。
 CDMは、オブジェクト指向などを核として用いていますが、金田教授は、モデル・手法が「何故その様になっているのか」が分かりにくく、そのため「方法論を支える理論的根拠が説明できないままに、「経験して学べ」型の教育手法となっている」「もし、理論的バックグラウンドが与えられれば、CDMへの理解がより深く、かつ容易になる可能性がある」と問題を指摘されています。そして「オブジェクト指向とCDMの背後にはパースを祖とするプラグマティズム哲学がある」との仮説を提示されました。

 この仮説が正しければ,哲学的認識論の基本的素養を持つ欧米の学生と、高校・大学を通じて一般教養軽視のわが国の学生とでは、モデリング手法などを学ぶ場合「理解の早さと深さ」に差が出ることになり、金田教授はその確認を今後の課題とされています。

 今回の金田教授の発表は、わが国のシステム開発方法論に対する考え方や高校・大学の教育のあり方に対して、きわめて重大な問題提起をされたものと考えます。
 トヨタの改善手法のキー概念として著名なものに5W1Hがあります。新聞記事の要件などとしてよく言われている5W1Hではなく、トヨタの5W1Hは、「5つのWhy(なぜ)を繰り返して、はじめて1つのHow(方策)が出てくる」というものです。的確な方策(実践の方法論)には考え抜かれた根拠が必要であることが表明されているのですが、一般的に工学の場合、理論(科学)とリンクして技術が発展してきた経緯があるのに対して、システム開発方法論に関しては、わが国の場合、その理論的根拠にさかのぼることが少なかったように思われます。
 学問の成立要件は、概念・歴史・理論・方策(実践の方法論)とされていますが、情報システム学の場合、関係者の取り組みが著しく方策(方法論)(しかも欧米由来の)に偏っていて、基本的な概念や理論が顧みられることが少なかったことは否めません。

 しかし全国の大学の中には、そのような基本的な概念や理論に対応する一般教養教育を実施しているところが、少数であっても存在します。その1つの優れた事例が、大阪大学で文化人類学専攻の中川敏教授によって行なわれている、理科系1年生対象の「人類学的視点から自然科学を見る」をテーマとする講義です(「言語ゲームが世界を創る」(世界思想社)参照)。
 もちろんこの講義は、情報システム学の基礎科目として実施されているわけではありませんが、人間がその生圏をいかに認識するかという観点の講義内容が、立派にモデリングの基礎理論になっています。中川教授が東部インドネシアの島でフィールドワークを行ない、民族誌をまとめられた専門家であることも、その講義を情報システム学の基礎として価値の高いものにしています。「要求定義工学入門」(富野壽監訳・共立出版)に、「真のユーザ要求を理解し導出するために有望な技術として」民族誌学が紹介されていることは、メルマガの2008年8月号に記したとおりです。

 金田教授が発表の中で概念データモデリングの基礎になる考え方として挙げられている「デュエム=クワイン・テーゼ」と「醜いあひるの子の定理」が、ともに中川教授の講義で詳しく説明されていることも、中川教授の講義内容が情報システム学の基礎理論として的確なものであることを表わしています。
 「デュエム=クワイン・テーゼ」とは、「科学の中の1つの命題は、それだけでは独立していない。それはつねに(その科学の中の)他の命題に支えられている」(中川教授)という考え方です。金田教授はこのテーゼをもとに、オブジェクトを命題と見なし、「あるオブジェクトが現実の業務のデータ状態と合致しない例が見つかった場合、このオブジェクトが誤っているとは言い難い。従来正しいとしたオブジェクトに少なくともひとつ誤りがあり、テストしているオブジェクトは正しいのに、不都合が発生していることがあるからである。このことは、概念データモデリングにおいて,何度もモデルの間を渡り歩くことへの必然性を示唆している」と述べられています。
 「醜いあひるの子の定理」は、渡辺慧氏の提示されたもので、2つの個体の類似度を両者が共通にもつ属性の数で表わすと、どのような2つの個体も、共通にもつ属性の数は同じである、すなわち世界の中のすべての個体は同じ程度に似ている、したがって類似性をもった個体の集合として定義されるカテゴリーは存在しない、というものです。この定理は数学的に証明されています。
 しかし私たちは、まわりの世界をカテゴリー分けしなければ、とても生きていくことはできません。そこで属性に重みづけをして個体間の類似度に差異をつくり、カテゴリー分けを行なっています。
 重みづけの基準になるのは、1つは人間的な関心の度合いです。例えば人間に役立つかどうかは、重みづけの重要な基準になります。あと1つは、主知主義と名づけられるもので、文化としてそのように認識されているので、そのようにカテゴリー分けするというものです。例えば、英語圏のbrotherに対して、わが国では兄・弟のカテゴリー分けが定着していますが、それは今日では生活上のニーズとしてより、まず言語として習得されている側面が大きいと考えられます。
 金田教授は「醜いあひるの子の定理」をもとに、概念データモデリングにおける静的モデルの粒度は、天下り的に決め得ないことを指摘されています。

 「人類学的視点から自然科学を見る」をテーマとする講義全体を通じて、中川教授が主張されているのは、私たちの世界認識やそれにもとづく行動を(一般的に厳密に実証されていると見なされている自然科学も含めて)「言語ゲーム」であるとする観点です。

 言語ゲームは、ヴィトゲンシュタインが後期に提示した概念です。ヴィトゲンシュタインは前期、「言語は世界と1対1に対応している」「言語は世界の写像である」と考えていたことがありましたが、後期には言語を「言語ゲームにおけるルール」として認識するようになりました。社会学者の橋爪大三郎氏は「はじめての言語ゲーム」(講談社現代新書)の中で、言語ゲームを「ルールに従った人々のふるまい」と定義しています。

 言語をルールとする見方には、当初違和感がありますが、橋爪氏はこれを次のように説明しています。
 「机」には、上から見た形が丸いもの、四角いもの、足の高さが高いもの、低いもの、引き出しの付いているもの、ないものなどいろいろありますが、人間はそれらのいくつかが「机」と呼ばれている環境にいるだけで、一般的にこのようなものを「机」と呼ぶというルールを理解します。このような能力によって、人間は言葉の意味を知っていくというのです。
 人類が動物の段階から言語を発達させたプロセスや、幼児が言葉を急速に習得していくプロセスが、科学法則の発展とまったく同等のプロセス(仮説実証法)であるという市川惇信氏の所説を、2009年1月5日号のメルマガで紹介しました。その観点からも言語を一種のルール(規則・法則)とする考え方は理解できます。
 ただし、科学法則の仮説実証においては帰納や演えきが意識的に行なわれているのに対して、「机」と呼ぶというルールの理解を含め、言語の発達や習得における帰納・演えきは、ほとんど無意識のうちに行なわれます。言わば直観的仮説実証法が進められていると見てよいのではないでしょうか。文化における習慣やいわゆる「構造」など暗黙的なルールも、このようなプロセスで形成されたと考えられます。

 中川教授の講義でも、ゲームはルールの体系として説明されています。そして文化もまた、暗黙的であってもルールの体系である以上、ゲームと見なされています。文化の中で語る仕方は、ゲームの中で語る仕方と同じであり、中川教授は、このようなゲームの中での語り方を言語ゲームと呼んでいます。

 中川教授の主張のポイントは第1に、カテゴリー分けやルールの根拠を、客観的な世界や人間の頭の中にではなく、文化すなわちゲームの中に求めていることです。
 「醜いあひるの子の定理」を認めた上で、役に立つかどうかという効用主義の視点に立ってカテゴリー分けを行なえば、それは根拠を客観的な世界に求めたことになります。それに対して中川教授は主知主義の視点に立ち、人間があるカテゴリー分けをするのは、それが知的に面白いから(ゲームの中で意味をもち、プレイヤビリティが高くなるから)だとして、根拠を文化(ゲーム)の中に求めています。
 一般的には実証によって根拠が客観的な世界にあると見なされている科学さえも、証明に用いられている帰納法に絶対的な正しさがないこと、例えば「酸素」というカテゴリーは、ラヴォアジェ以降の化学という理論体系(言語ゲーム)の中でのみ意味をもつこと、理論体系を通して対象世界が見られることが多いことから、根拠は理論体系(言語ゲーム)自体の中にあるという見方を強調されています。
 しかし実際問題として私たちは、生活世界の中で効用主義の立場を捨てられません。私たちは、効用主義と主知主義双方の視点で、対象を見ていくことが必要と思われます。

 中川教授の主張のポイントの第2は、全体論です。第1のポイントにも関係しますが、あるカテゴリーやルールの意味を理解するには、それらが属している文化(ゲーム)の体系の全体を把握しなければならないという考え方です。ゲームの体系の理解なしには、そのゲームの一部を理解することができないという立場がとられています。ある社会で、一見奇妙なカテゴリー分けやルールが存在していたとしても、それらはその社会の文化の中にうまく適合していて、1つの整合性をもったまとまりを形成しているのです。
 科学における全体論とは、科学を構成する法則などの命題群が、すべて互いに関連しあっていると考える、先に述べた「デュエム=クワイン・テーゼ」にもとづく考え方です。したがって、関連する他の命題の真偽が確認されていないのに、ある命題の真偽を単独で決定することは不可能です。このテーゼを認識していなかったため判断を誤った事例は、科学史の中に多数見出すことができます。

 結論として中川教授は、(言語やルールの)「意味は(客観的な世界の中にではなく)ゲームの中にある」というテーゼを提示されています。このテーゼは「(言語)ゲームが世界を創る」と言い換えることが可能です。文化も科学もルールの体系すなわちゲームであり、それぞれがそれぞれの世界と真理をつくり出しているのだと、講義を結ばれています。

 以上、言語ゲームと中川教授の講義について紹介してきましたが、本稿で述べたいのは、言語を情報で置き換え、ゲームをシステムで置き換えて、言語ゲームとは情報システムのことではないか、情報システムの起源は言語ゲームではないか、ということです。
 そのように考えると、言語ゲームに対して「デュエム=クワイン・テーゼ」や「醜いあひるの子の定理」が用いられている以上、金田教授が概念データモデリングの理論的バックグラウンドとしてこれらに言及されたことは、きわめて的確であったことが分かります。
 また、言語ゲームに関しては、(難解ですが)多くの研究が行なわれており、社会理論への展開も見られます。それらを新情報システム学の体系化に際し参照することも可能になります。
 さらに中川教授の「言語ゲームが世界を創る」は、同時に「情報システムが世界を創る」ことになります。情報システム産業のインダストリ・アイデンティティとしてこれに優るものはないと思われます。

 なお、中川教授の「人類学的視点から自然科学を見る」講義は、理科系1年生を対象に前期に開かれています。つまり、1か月前まで高校生だった人たちを対象にして行なわれているのです。高校3年生を対象にこのような科目を設けることも、あながち不可能ではないと考えられます。
 メルマガの2008年8月号で述べたように、フランスの高等学校の哲学教科書(フルキエ著「哲学講義」)は、日本語の訳(文庫版)で全4巻、2,269ページという大部なものです。フランスでは哲学が高校3年で全員必修になっており、時間数が人文系に進むコースで週8時間、理系の場合、週4時間という重要科目になっていることに鑑みて、わが国でも高校・大学における一般教養教育の充実が望まれます。前号で述べた、教科「情報」をスーパー科目とすることと併せて探求すべき課題です。

  この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。
皆様からもご意見を頂ければ幸いです。