情報システム学会 メールマガジン 2009.10.25 No.04-09 [12]

連載 情報システムの本質に迫る
第29回 情報システムとしての歴史学

芳賀 正憲

 日中が国交を回復して最初の大規模プロジェクトで中国に赴任したとき、いくつかの中国関係の本を読みました。その中で今でも強く印象に残っているのが、貝塚茂樹著「中国の歴史(下)」(岩波新書)です。そこにはエピローグとして、中国と米国との関係は、米国が列強の中で最も遅く東洋に進出、第2次大戦まで中国で領土や利権をもたず、大戦では中国を支援して日本と戦い、大陸から日本を撤退させるのに貢献したことから、朝鮮戦争での敵対があり、その後の台湾支援や封じ込め政策があったとしても、その対立の根は、本来同盟国である中国とソ連との間の歴史的な対立の根に比べて、決してそれほど深いものではないと書かれていました。
 奥付を見ると、1970年3月の発行です。後に図書館情報大学・増永良文教授の著書により、この年に提案されたリレーショナルデータベースの呼称が米中関係の「関係」から名づけられたもので、当時の米国で中国との関係が国民的一大関心事であったことを知りましたが、そうだとしても1971年のニクソン政府による米中和解は、わが国にとって頭越しで衝撃的であっただけに、その前年にすでに上記の明言をしていた歴史家の洞察力に感嘆しました。

 東京大学・高山博教授は、本年10月5日から日経新聞経済教室に連載された「歴史から見る現代」の中で、「歴史学は、所与のものとされている(社会の)枠組みの変化自体も分析の対象とし、変動する社会や世界の方向性を見据えることのできる(将来への羅針盤となってくれる)学問」と位置づけています。
 そのための歴史家の仕事として、高山教授は大きく2つ挙げています。1つは、史料を用いて過去の特定の社会の実際の姿を知ろうとすること、可能なかぎりの方法を用いて失われた過去の社会を探求し再現することです。情報システムの観点で言えば、モデリングをすることになります。
 あと1つは、過去に関する情報をもとに、社会の変化を見極め、時代の流れを認識し、自らの歴史像を提示することです。これは、特定の社会をその状態遷移まで含めてモデリングすることであり、またそこから、因果関係や可能なかぎり普遍的な因果法則を見出すことだと言えるでしょう。

 このように見てくると、歴史の研究はまさに、社会という大きな組織を対象にしたオンラインの情報システム分析と同等の活動であり、形成されたモデルもまた、それによって社会の今後の変化を見通すための1つの情報システムであることが分かります。
 歴史が1つの情報システムの遷移である以上、その分析を構造的に進めることが考えられます。歴史学における構造主義の取り組みで主流となったのが、2つの大戦の間にフランスのマルク・ブロックたちにより創始されたアナール学派です。「パパ、だから歴史が何の役に立つのか説明してよ」とわが子から問われ、学者にも小学生にも等しく理解されることをめざした原稿を残し、レジスタンスに斃れた歴史家として、マルク・ブロックの名前はよく知られています。
 アナールとは年報のことです。研究グループの拠点が雑誌「社会経済史年報」(その後「年報―経済・社会・文明」「年報―歴史と社会科学」などと改称)によっていたことから名づけられました。雑誌名にも表れていますが、歴史学を中心に、広く人間諸科学、経済学、社会学、文化人類学、人文地理学、言語学、心理学などを総合して研究が行なわれました。このような総合的なアプローチは、今まさに情報システム学がめざしている方向とも一致します。

 それまでの歴史学が、事件を中心に政治権力の変遷という、いわば社会の表層をフォローしていたのに対して、アナール学派では、歴史上の各個別事象はすべて社会全体との関連の中で、深層から構造的にとらえるべきだと考えました。
 アナール学派の第2世代の代表といわれるブローデルの場合、地中海世界の分析で、歴史を次の3つの層で分析しました。

 (1) 自然条件や主要な交通路など、ほとんど変化しない地理学的時間層
 (2) 社会制度や文化・文明の構造など、ゆるやかに変化していく社会的時間層
 (3) 軍事的・政治的事件など、ごく短期間に変化する個人的時間層

 さらにブローデルの代表作といわれる「物質文明と資本主義」では、上記の3層に加えて、生活についても次の3層があることを示しました。

 (1) 衣食住のような基本的な生存にかかわる物質生活
 (2) 物質生活を基礎として、その上で展開されている商業・貿易などの経済生活
 (3) 経済生活の上に19世紀以降発展してきた複雑なシステム―資本主義

 ブローデルは、歴史の構造的把握の中で、数量分析も積極的に導入、現代社会科学との連携を強めました。

(岩波哲学・思想事典、浜林ほか編「歴史学入門」(有斐閣)参照)

 メルマガ7〜9月号でハンガリーの経済学者コルナイ・ヤーノシュを紹介しましたが、社会(経済)システムをモデルとして分析し、体制崩壊の9年も前に体制の内部から社会主義経済の失敗を見通したコルナイは、アナール学派の観点に立った、卓越した歴史家と見なすこともできそうです。
 歴史学がモデリングであり、1つの情報システムをつくるワークである以上、その作業は科学的に進められる必要があります。
 しかし、歴史が多くの人々の伝聞や記録、それを書写した結果や、遺物の解釈などによって形成される以上、そこに何重にも主観がはいり、客観的な歴史認識は不可能ではないかという疑問が生じます。それに対して前述の高山博教授は、たとえ客観的な認識が最終的に不可能だとしても「歴史家は自分が持つあらゆる能力を用いて、史料から過去を可能なかぎり客観的に復元しようとする。そして、歴史家が史料を読み解く技術と知識を身につけた上で、史料から過去を客観的に復元しようとしているかぎり、歴史学は歴史家の恣意的な自己表現の場にすぎないという批判はあたらないだろう」と述べています。

 現実には歴史に関して、客観的な認識が必ずしも簡単にはできないことから、主として専門の歴史家以外の人たちにより、「恣意的な自己表現」がしばしば行なわれます。
 今年の8月15日、NHKで視聴者参加の討論番組「核―日本の、これから」が放映されました。驚いたことにこの番組の中で、複数の参加者が「日本が原爆を落とされたのは、核兵器を持っていなかったからである」(だから、日本は核攻撃を受けないために核武装すべきだ)と発言していました。この発言は、直前の8月6日、前航空幕僚長が広島で行なった講演の中で、サッチャー首相の言として説いた内容と符合しています。
 前空幕長の主張は、サッチャー首相のいわば「権威にもとづく論証」によっていますが、当時日本は核兵器を持ちたくても持つ能力がなかったのですから、いくらサッチャー首相の言でも、この論証は無意味です。歴史上のifに意味があるのは、意思決定結果の反省として、可能だった複数の選択肢のうち、実際と異なる他のケースについて検討する場合です。

 アジア・太平洋戦争の帰趨については、それに先立つ1920年代(大正末期)東洋経済新報の主幹になった石橋湛山(戦後、首相に就任)の提言に見るべきものがあります。石橋湛山の思想は、小日本主義と呼ばれていますが、MITのリチャード・サミュエルズ教授(政治学)は、「日本防衛の大戦略」(日本経済新聞出版社)の中で、石橋の主張を次のようにまとめています。
 「満洲および中国への侵略に拍車をかけるおそれがあるとして、第1次世界大戦で日本が連合国に参加することに、石橋は反対した。そして彼は、具体的な分析を示して、これには経済的利得がまったくないことを証明した。それどころか、侵略に成功した場合、欧米列強と直接衝突する立場に置かれ、中国の民族主義を煽ってしまう。そうなったら、日本が真の強国になるために必要な技術の源である欧米と断絶することになる。1915年の対華21カ条要求についても、石橋は、政治的にも経済的にも軽率な行為だと激しく論難した。また海洋戦略を支持し、1918年以降、大陸に関するすべての権利要求を放棄すべきだと主張した。必要とあれば、競合する陣営とも自由貿易をおこない、国際連盟のような強力な国際組織に参画することが、日本の安全保障を確保する、これが石橋の考えだった。1921年の日本は、もはやロシアや英米の脅威にさらされてはおらず、東アジアの傑出した大国であるのに、「侵略行為により反感や疑念の種を蒔いて自ら攻撃にさらされている」と、石橋は確信していた。1921年6月、ワシントン会議直前、石橋は「大日本自由主義の幻想」という見出しの社説を連載した。経済的負担を軽減し、道義的立場を高めるために、すべての植民地を放棄すべきだと、提案した。

 その後1945年までの、わが国の崩壊に至る歴史をたどるとき、石橋湛山がいかに的確にその推移を予測していたかが分かります。結末は軍事的・政治的なものですが、予測は、「帝国外の貿易の方が帝国内での貿易よりも大きく、それが日本の技術の源になっているのに、なぜ貿易相手の国々と戦争を引き起こすような真似をするのか」(上掲書)という、経済を中心にした分析によって得られています。それが同時に、道義に適った主張にもなっています。

 複数の国が関わる歴史についても、各国の歴史家が、史料から過去を可能なかぎり客観的に復元しようと努めることにより、共通の歴史が得られるはずです。
 残念ながらまだわが国は、中国・韓国と共通の歴史教科書を作成するに至っていません。10月7日岡田克也外務大臣は、中韓両国との間で歴史共同研究を推進し、「共通の教科書」の作成を将来的な検討課題にすべきだとの考えを明らかにしました(時事通信社)。韓国の外相は、「正しい歴史認識を持つことが重要だという観点で高く評価する」と述べ(読売新聞)、中国紙では、「実現のカギは日本が歴史問題に対し、どれだけ反省しているかだ」と報じています。MITのリチャード・サミュエルズ教授は、前掲書の中で、「日本に自国の歴史を直視する意欲と能力がないことは、間違いなく日本のソフトパワーにおける唯一にして最大の制約であろう」と述べています。

 日中韓共通の教科書を作ろうとするとき、各国からさまざまな意見が出て対立が生じることは容易に想像できます。しかし私たちは、かつて繰り返し激しく戦ったドイツとフランスの間で共通の歴史教科書が完成しつつあり、またドイツとポーランドの間でも、歴史教科書の共同研究を越えて共通歴史教科書を作る可能性が模索されつつあることに注目する必要があります。
 名古屋大学大学院・近藤孝弘教授によると、2008年、「独仏共通歴史教科書・第2巻・ウィーン会議から第2次世界大戦まで」の両国語版が同時に出版されました。すでに2006年に刊行されている、1945年以降の現代史を扱う第3巻とあわせ、計画全体の3分の2が終了しています。
 もともとこの計画は、独仏の和解をめざす条約締結40周年を記念し、2003年、両国の高校生550名あまりがベルリンに集まり、和解をさらに進めるために何が必要か議論したことから始まりました。そのとき彼らがたどり着いた結論の1つが、「無知から生じる偏見を取り除くため、両国が同じ内容の歴史教科書を導入すること」で、シュレーダー首相とシラク大統領がこの提案を取り上げ、実現したものです。

(近藤孝弘「敵対から和解へ」学士会会報2009年7月)

 いかに高い観点に立って、世界の人たちに納得してもらえる、情報システムとしての歴史を形成できるか、今、私たちの取り組みが問われています。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。皆様からもご意見を頂ければ幸いです。