情報システム学会 メールマガジン 2009.8.25 No.04-05 [11]

連載 プロマネの現場から
第17回 山二題 「大雪山系の事故と映画『劒岳―点の記』」

蒼海憲治(大手SI企業・金融系プロジェクトマネージャ)

 残暑お見舞い申し上げます。
 今年の夏は、みなさまどうお過ごしになられたでしょうか?

 平素、オフィス内に閉じこもっていることが多いため、週末は極力、「グリーン作戦」と自称して、近くの山野へトレッキングや散策に出かけるようにつとめています。
 今年は、山に関して、私にとって印象的な出来事が2つありました。
 1つは、7月に起こった大雪山系トムラウシ山の登山ツアーでの遭難事故であり、もう1つは、中高年の圧倒的な支持を得て観客動員200万人以上を達成した映画「劒岳―点の記」でした。
 トムラウシ山は、日本百名山の1つであったので、いつか登ってみたいと思っていたこと、また、旅行会社主催のトレッキングや登山ツアーを過去に2度ほど利用し、その便利さに感心しており機会があれば利用したいと考えていたので、今回の事件で、夏山の怖さを改めて認識することになりました。
 事故の詳細は、第三者の調査委員会によって報告書がまとめられるとのことですが、新聞・雑誌で発表された情報を基に、少しその原因を考えてみたいと思います。
 事故の概略ですが、大雪山系のトムラウシ山(2141メートル)で、東京都内の旅行会社が企画した縦走ツアーの参加者ら計18人が遭難、ガイド1人を含む8人が死亡した事故でした。ツアーの日程ですが、7月13〜17日の日程で旭岳からトムラウシ山の計45キロの行程を3日間で縦走する計画でした。16日は未明から荒天でしたが、出発時点は雨模様であるものの、午後から晴れる、という天気予報に期待したガイドの判断によって、予定より30分遅れで山小屋をスタートすることになりました。しかしながら、雨と風速20メートル以上の強風により、体感気温は推定、−5℃以下という低温となりました。亡くなった方々の死因は、低体温症とのことであり、自力で下山できたのはわずか5人だった、といいます

 事故の直接・間接の原因としては、大きく5点ほど考えられると思います。
 1つ目は、旅行日程に予備日が用意されておらず、天候に不安を持ちながらも、予定通り決行されたこと。
 ただし、予備日については想定していた場合であっても、日程の余裕がないメンバーが中心の場合、ツアー客側の都合で多少の悪天候であれば出発すべきとの圧力も予想されるため、ガイドへの権限付与が必要となります。そうでないと、クレームによる返金を怖れて、強行が繰り返されることになります。
 2つ目は、ガイドの経験不足。3人のガイドのうち、今回のルートを経験したのは1人だけだったこと。
 ルートの下見がないぶっつけのガイドであれば、避難し救助を待つにせよ、正確な場所を把握し、伝えることさえ困難であったと思います。ましてや、悪天候の中で、ガイド自身が身を守ることで必死だった様子が想像されます。
 3つ目は、携帯電話による救助連絡をしなかった、また、救助連絡できなかったこと。
 救助連絡ができなかったのは、通常の携帯電話のため、圏外になっていた可能性があること。しかしながら、この点については、衛星携帯電話が1台あれば、回避できたと考えられます。また、通話圏内にあっても、日程変更等の連絡をすることにより、ガイドに対して何らかのペナルティが課せられる怖れがあり、連絡をためらった可能性があるのではないか、と思っています。また、山岳地域での遭難事故の場合、救助費用は受益者負担となるため、高額な救援費用を考えて救助連絡の遅延につながった可能性もあると思います。今後は、ツアー客全員への保険の義務付けが必要になるかもしれません。
 4つ目は、意思決定なき空白の1時間半。
 おそらく最初の遭難者が発生した後の長い待機時間は、山小屋に引き返すか、それとも下山を強行すべきかを逡巡しながら、ひたすら天候の回復を待つということだったのではないでしょうか。しかしながら、風雨が激しい中で、歩いていれば体温が維持できた場合でも、待機する中で体温と体力を失っていったと思われます。1時間以上の時間があれば、山小屋に引き返すことも、下山したとしてもより安全な場所へ移動することも可能だったのではないか、と思えてなりません。万一トラブル発生時には、3人のガイドの分担をどうするか、といったことの確認が事前にできていれば、初動は大きく異なったと思われます。
 5つ目は、ツアー客の自己責任と、ガイド側のチェックの不徹底。
 登山に対する装備や経験、基礎体力・体調管理などの自己管理は果たしてどうだったのか? 旅行会社側は、事前に、防寒着やインナーウェア等を装備する旨のパンフレットを渡していたとのこと。しかし、低体温症で遭難した方の服装は、薄着の人が多く、防寒着を持参していないか、また持っていても、着用していなかった。せっかくの「持ち物リスト」がありながら、ガイドによる旅行出発前の事前チェックや、悪天での山小屋出発時のチェックがなかったか、チェックがあっても、適切でなかったと思います。
 旅行会社主催のツアーの難しさとして、寄せ集めのツアー客とガイドの関係があります。
 登山に経験豊富なツアー客と登山初心者が同時に存在すること。経験豊富なツアー客に対して、ガイドがどこまで指揮・命令することができるか。ガイドは、ツアーのリーダーと明確に認められているか。ツアー客としても、ガイドにリーダーとしての責任まで、どこまで委託してよいものか考えてしまいます。

 トレッキングのファンとしては、今回の事故の分析を踏まえて、旅行会社のツアーの手軽さを維持しつつ、安全確保する道を検討していただきたいと思っています。また、ややもすると、通常の旅行の延長に、トレッキングや登山ツアーを考えてしまうため、自己責任の範囲を見つめなおしてみたいと思います。さらにいえば、事前の準備が甘いままの見切り発車や、スキルレベルが十分にわからない新規メンバーで組成されるチーム、トラブル発生の初期動作の拙さ、上位組織へのエスカレーションの遅れ、指揮命令系統の曖昧な体制、それによるリーダーシップの曖昧さ、メンバーのもたれ合い・・等という現象は、システム構築プロジェクトにおいても、大いに他山の石となると思っています。

 ところで、大雪山系での遭難事故と対照的だったのが、映画「劒岳―点の記」であり、新田次郎さんの原作(*)でした。
 明治39年に、日本地図最後の空白地帯であった剱岳への山頂に三角点を設置すべくチャレンジした測量官と山の案内人たちの記録ですが、全編通して伝わってくるのは、主人公の測量官、柴崎芳太郎のプロフェッショナルとしての態度、プロジェクト・リーダーの鑑としての姿でした。
 どんなに困難な中においても、用意周到・準備万端ととのえ、着実に業務を推進する。一時の勇気である蛮勇をふるって失敗することは、組織としての恥と心得る。困難に一歩も引かずに取り組みつつも、無理であれば、潔く撤退する勇気も持つ。

「点の記」とは、地形を測量する基となる、三角点設定の記録のことです。
「三角点標石埋定の年月日及び人名、
点標(測量用やぐら)建設の年月日及び人名、
測量観測の年月日及び人名の他、
その三角点に至る道順、人夫費、宿泊設備、飲料水等の
必要事項を集録したもの ・・ 永久保存資料として国土地理院に保管されている」

 設置された三角点によって、地形測量が行われ、私たちが利用している地図ができます。

 測量のステップには、5つの段階があります。

 第一段階 事前調査 いわゆる下見

 第二段階 撰点のための地形偵察
 当然のことながら、「撰点は見通しの利くところを選ばねばならない」という条件がありますが、これに加えて、「撰点の作業と同時に材料運搬路を確認してくること」という条件が付け加えられます。身一つでの登山でも困難な山中で、ロジスティックスの確保まで考慮すると、難度がさらに上がります。

 第三段階 撰点 三角点を置く場所を撰ぶ仕事

 第四段階 造標 三角点に観測用の楼を建てる仕事
 これと同時に埋石といって三角点の標石がそこに埋め込まれます

 第五段階 観測 経緯儀という器械を使って行う観測

 測量前の事前準備は、圧巻でした。
 その一例を紹介すると・・

「器具、器械の数は相当多い。
測量器械だけでも乙種双眼鏡、測斜照準器、三等望遠鏡、方きょう羅針儀、
独立気泡水準器等二十種類に達する。
器具類はほとんど大工用品で、墨壷、曲尺から始まって、鎚だけでも六種類、
鋸は七種類、鑿が五種類(内一個は石鑿)もある。
大工道具は揃っていた。用具も背負子が四個を始めとして、
天幕、天幕用桐油布、十字鍬(ツルハシ)、円匙(スコップ)、各種綱類、
滑車などがある。
変わったものでは、木登用綱、木登帯、木登爪(足に付けて木に登る爪)がある。
特に変わったものは熊避けの喇叭(ラッパ)である。
消耗品も多い。多くは用紙類である。三等観測手簿のように、観測の際に必要な
各種用紙類が、二十種類ほどある。
この他に現金出納簿や、支払用紙、などのような会計法上必要な用紙もあるし、
封筒類、半紙、ザラ紙、インク、鉛筆のようなものから、複写紙まである。
木綿糸、紐類、西洋蝋燭(提灯(ランタン)用)などの他、
消耗品として白赤に染め分けられた測量旗が数十枚用意されていた。」

 これらをベースキャンプに置き、必要時、前進基地へ移動させ、さらに山頂に持ち上げる。登山家は、山頂に立つまでが仕事ですが、一方、測量官は、山頂に立ってからが仕事となります。しかも、空身ではなく、膨大な荷を持って。

 そして、柴崎さんの習慣は、プロジェクト・リーダーの行動としても非常に優れたものでした。
「測量に出た時には、どんなに疲れていても、その日の記録を整理する習慣がついていた。・・記録を予め整理して置けば、東京に帰ってすぐ出張復命書を提出できるからだった。」
 また、厳しい環境下で、人夫らは、風邪を理由に下山したが、責任者の柴崎は病気を理由に休むことはできなかった。また、山の中で、人夫らと共同生活している中で、「測夫や人夫たちと同じ天幕に寝、同じものを食べて働くのが、測量を成功させるコツである」と心得、実践されていました。

 非常な苦労を伴って、柴崎らが行った三等三角点網を足場として、地形科による地形測量が行われ、更にその資料は製図科に廻されて、ようやく地図が作製され、日本地図から空白地帯は無くなりました。

 映画も原作も、非常に抑制が効いており、静かな感動が伝わってくる名作でした。

(*)新田次郎「劒岳―点の記」