情報システム学会 メールマガジン 2009.5.25 No.04-02 [11]

連載 情報システムの本質に迫る
第24回 新IS学確立へのアプローチ

芳賀 正憲

 Bacteria is always right.これはある生物学者が、実験に際して恩師から教えられた忘れがたい言葉として紹介されていたものです。細菌を用いて実験していると、予期に反して増殖したり死に絶えたりすることがあります。このとき実験者としては、用いた細菌に何か問題があったのではないかと考えがちですが、そうではなく、細菌はつねに設定された環境に従って変化したまでで、すべての原因は実験者の進め方にあると考えなければならないという教訓です。
 細菌がrightであるということと、人間の認知や判断が妥当であることとは意味が異なります。しかし、経済学や政治学など従来の多くの学問は、人間が与えられた条件下でその利益や効用を最大化するため、合理的に判断することが可能であることを前提にして組み立てられてきています。人間はそれほど合理的にふるまうわけではないとして、行動経済学が生まれたのは比較的近年のことです。その意味では人間も、always rightとして考えられることが多かったのです。
 一方では、人間はしょせん合理的な認知や判断はできないのではないかという懐疑的な考え方も古くからありました。極端なケースですが、伝説的には次のようなひどい話があります。
 証券会社がまだ株屋と呼ばれていた頃のことです。ある株屋は「客(しろうと)はつねに判断を誤る」という信念をもっていました。この株屋は、客がA株を売りたいと言って店に来ると、それを市場に出さないで自分で買い取ってしまいます。次に別の客がA株を買いたいと言って来ると、これも市場には取り次がないで、自分の手持ちのA株を売ります。もちろんこれは明らかなノミ行為で違法ですが、客はつねに判断を誤るのですから、客と反対の取引をしている株屋はつねに利益が出るという結果になります。

 実際の人間の認知や判断がalways rightではなく、そうかと言ってalways wrongでもなく、その中間にあることは自明のように思われます。人間のもつこのように限定された合理性に早い段階で着目したのは、1978年にノーベル経済学賞を受賞したH.A.サイモンでした。人間は1人1人、生存し自己実現をはかっていくために情報処理を行なっているが、対応しなければならない環境の複雑さに対して、個人のなし得る範囲には限界がある。組織とは、このような個人の限界を克服するために、システムとして形成されたものである。サイモンの考えは、このように要約することができます。
 最近わが国で、クリストファー・チャーニアク著・柴田正良監訳「最小合理性」(勁草書房)が出版されました。発行は今年(2009年)2月ですが、原書が出たのは1986年のことです。難解な書物なので訳者の解説を参考にすると、最小合理性とは、行為者が直面する問題に対処するために最小限必要な合理性です。行為者は問題を解決するため、まず長期記憶上に分類整理していた信念の、ある部分集合を呼び出し、解決に役立つと思われるいくつかの信念を検索して短期記憶上に活性化させます。記憶容量や情報処理にかけられる時間など認知資源の限界から、問題のむずかしさによっては、活性化した信念だけでは解が得られません。そのときはヒューリスティックな方法で、近似でもよいから解に到達するようにします。そのような最小合理性によって、人間は辛うじてさまざまな問題を克服してきていると見なされます。

 社会主義経済の破たんや現在の金融危機の要因として、人間の認知能力の限界が大きく関与していることは、このメルマガでもたびたび言及しました。それにも増して今日問題なのは、個別の専門分野における知識の爆発的な発展です。例えば、初等中等教育で広く学ばれている光合成の知識は、20世紀の初め、水と二酸化炭素と太陽光により炭水化物と酸素がつくられるという簡単なものでした。現在このプロセスは、酵素やゲノムとの関わりも解明され、知識の量は1万倍にも拡大しています(小宮山宏「知識・構造化ミッション」日経BP社)。
 知識がこのように細分化して拡大すると、人類全体では膨大な知識を獲得しているにもかかわらず、どのような個人も隣の領域の内容さえよく分からない、専門外の人には専門のことが分からない、結局全体像は誰にもつかめないという恐るべき状態になります。人間の認知能力の限界が、相対的にいちじるしく狭くなってきているのです。

 ギリシャ時代ソクラテスが、自分の無知を自覚することが真の知にいたる出発点であるという、いわゆる無知の知を主張したことは有名ですが、21世紀の今日、改めてそのような自覚が必要な時代になってきています。
 プラトンが、真理のための理論的探究、対象に対する体系的・方法的探究を進め、厳密な数理知識、理論知の確立をめざしていたのに対して、イソクラテスが、言葉を練磨し育成することこそ人間が最も人間らしくなる方途であると考え、言語技術に熟達することにより、「実生活の多くの場合において健全な判断をし、最善のものに到達できる」、実践知(フロネーシス)に優れた人になることをめざしたことは、このメルマガでもすでに紹介しました。
 限られた情報と限られた情報処理時間の中で、厳密な理論解は求まらないことがしばしばあります。そのような場合でも、なんとか問題を解決して生き延びていかなければならないのが人間の宿命です。そのために理論の世界ではなく実生活において、普遍的でなくても多くの場合において、完璧ではなくても健全でベストを尽くした解を、言語技術を通じた思考の練磨によって求めていこうとするイソクラテスの考え方は、きわめて今日的な課題に応えたものであると言えます。

 現在わが国では、情報システムに関わるステークホルダーの間で、さまざまな意見や主張の対立が顕在化しています。
 システムトラブル発生時には、受注者と発注者、情報システムのオーナーとエンドユーザの間で利害の対立が起こり、訴訟にもち込まれることも頻発しています。このとき裁判所のほうも、容易に裁定を下すことができるだけの、情報システムに関する判断基準をまだもっていません。
 情報システム人材の育成については、産業界と大学との間に見解の相違があります。産業界からは、現場での応用に役立つ教育が大学で行なわれていないという批判が、つねになされています。しかし産業界は、大学においては情報システムに関する概念・歴史・理論・方策という基本的な要件を修得することが必須であり、それは実は産業界にとっても重要なことであるという認識を欠いたまま、批判だけをしているのです。
 一方、大学のほうからは、「どういった知識・スキルを教えればよいのか具体的に示して欲しい」という声が多く経団連に寄せられるという心細い状態でしたが、最近は「大学では(コンピュータサイエンスなど)きちんと教えているのに、企業の上司が、学生が大学で学んだことを活かすように仕事をさせていないから問題が起きるのだ」という、産業界への反論も出てきました。しかし大学のほうも、自分たちは情報システムに関して概念・歴史・理論・方策を体系化して修得させているのかという問題意識が依然として欠落したままの状態です。
 高等学校では、教科「情報」が必履修科目として2003年度から開始されました。しかし3年後、高等学校における必履修科目の未履修が全国的に大きな問題になったとき、教科「情報」は世界史に次いで未履修者の多い科目になっていたことが明らかになりました。
 この後、全国高等学校校長協会からは、中央教育審議会に対して、教科「情報」を必履修科目からはずすよう繰り返し要望書が出されています。指導教員の不足などが理由として挙げられていますが、それだったら指導教員の増強策などを提言すべきであり、要望書が出された理由が、必履修科目としての教科「情報」に十分な価値観がもたれていないことにあるのはまちがいありません。
 これに対して教科「情報」を推進してきた教員層は、危機感をもって、必履修科目としての存続に取り組んでいます。しかしそれと併せて、現在の教科「情報」が、コンピュータではなく、「情報」や「情報システム」に関して、真に概念的基礎から学ぶことができる内容になっているのか、再吟味が必要と思われます。

 情報システムに関わるさまざまなトラブルを含め、世の中で起きているステークホルダー間の意見や主張の対立の問題は、情報と情報システムの概念・歴史・理論・方策という(学問としての本来の)諸要件が、一貫した形で明確になってなく、関係者の間で共通認識ができていないところから起きていると思われます。

 わが国でも情報システム学のカリキュラムの体系化は、ここ20年来、精力的に行なわれてきています。しかしその進め方には、欧米の関係学会で逐次発展させてきたカリキュラム体系をフォローし、それに習って整理してきたという特徴があります。体系化は欧米のほうがはるかに先行していたし、国際的な共通認識も確保しなければなりませんから、これはある意味、必然的な方法です。しかしこの進め方には重大な見落としがあります。
 コンピュータサイエンスとはニュアンスを異にして、情報システムは文化とほとんど等価なものであり、少なくとも文化の上に、あるいは文化の中に形成されるものです。そのため欧米で開発された情報システム学のカリキュラムは、欧米の文化を反映し、哲学や、初等中等教育における言語技術など、層の厚いリベラルアーツ教育を基盤として成り立っています。そのような文化的基盤をもたないわが国で、上部構造であるカリキュラムだけを取り入れることは、木に竹を接いだようなものになり、共通の理解や定着が必ずしも容易ではなくなります。したがって欧米のカリキュラムを参考にするとすれば、欧米で情報システム学のカリキュラムとしてはimplicitになっている基盤部分の教育体系を明らかにし、初等中等教育、大学の一般教育などで実行していくことが必要になります。
 このようにわが国では、基盤部分を含めてトータルとしての情報システム学の体系を考えていくことが重要です。上記したような情報システムに関わるさまざまな意見や主張の対立を考慮すると、特に基盤部分を中心に、新たに情報システム学を体系化し、目に見えるようにして、社会にも大学にも高校教育界にも提示することこそ、喫緊の課題であり、他の学会や団体にその対応が期待できない以上、情報システム学会がメインの事業として推進すべきものと思われます。それこそが、情報システム学会の設立の理念にかなった使命とも考えられます。このため情報システム学会では今年度、新IS学体系調査研究委員会を発足させ、活動を開始することにしました。

 新IS学の体系の中で、情報システムをどのように考えたらよいのでしょうか。大前提として、人間の認知能力の限界を想定することが考えられます。それに加えて先月号のメルマガで紹介した慶應大学・山内志朗教授の「畳長性」の概念を取り入れると、情報システムの1つの定義は次のようになります。
「人間(各個人)の限定合理性を補償するため、ソリューションとして形成された畳長組織」
 ここでは、情報システムを組織と等価のものと見なしています。サイモンが、組織は情報処理システムであると言っていて、その逆も成り立つと考えました。少なくとも疑似組織、あるいはメタファとして組織を考えることは可能と思われます。全体として上記の定義は、サイモンの組織の説明を情報システムに拡張したものになっています。
 補償とソリューションと畳長には、部分的に意味の重複がありますが、それぞれの意味、特にソリューションの意味を強調するため、3つ並列させました。

 それでは情報システムの機能として、畳長性は具体的にどのように組み込まれていくのでしょうか。
 ほとんどの情報システムにとって必須の機能として、Plan-Do-Check-Actのサイクルがあります。この中で、本来の実効性をもっているのはDoだけです。しかし、行き当たりばったりDoを進めたのでは、不適切なプロセスが実行され、不満足な結果に終わる懸念があります。そこで目標とDoの進め方について周到な検討を行ない、最適と考えられるPlanを立てた上で、そのPlanに従って実行に取りかかることにします。
 Planの周到な検討により、実行結果が満足のいくものに近づくことが期待されますが、それでもまだ目標が達成されなかったり、プロセスが適切でない可能性は残ります。そこで実行結果を分析して、目標未達やプロセスが不適切だった場合、修正計画を作って再実行します。それがCheck-Actのプロセスです。

 一方、Planに関して、現状ではそのPlanでよいとしても、今後想定されるさまざまなリスクに対して、今のPlanのままでよいのかという問題があります。これに対しては、現在のPlanをリスクの観点から分析し、場合によってはPlanを修正しなければなりません。そのためPlan-Check-Act -Do-Check-Actというのが、より畳長性を高めた確実性の高いプロセスになります。

 しかし、Plan-Do-See(Check-Act)という、いわゆるデミングの管理サイクルがわが国に伝えられたとき、リスク分析のプロセスが必ずしも明示的に示されなかったのはなぜでしょうか。1つの理由として、欧米ではPlanというとき、当然のこととしてリスク分析を行なうことがimplicitに想定されていたことが挙げられます。それに対して、少なくとも90年代半ばまで、リスクという概念を意識することが少なかったわが国では、明示的に位置づけて初めて共通認識が促進されると思われます。

 今後、欧米とわが国の文化差を十分考慮しながら、新IS学体系の確立を進めていく必要があります。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。皆様からもご意見を頂ければ幸いです。