情報システム学会 メールマガジン 2009.3.25 No.03-12 [8]

連載 情報システムの本質に迫る
第22回 情報システムにおけるコントロール

芳賀 正憲

 金融危機の深刻化にともない、昭和の金融恐慌で破たんした鈴木商店のことが、テレビや新聞でよく取り上げられています。3月4日のNHK「その時 歴史が動いた」(経済危機、世界を揺るがす)では、2001年に引き続いて再び鈴木商店を登場させ、また、昨年末の日経新聞「エコノ探偵団」は、100年に1度の経済危機で名門企業がどれだけ大変だったか、後継企業の大手商社・双日を訪ねて、鈴木商店の事例をレポートしています。
 鈴木商店は、砂糖などを取り扱う、文字どおり1商店から出発したのですが、明治から大正にかけて大躍進を遂げ、一時は三菱はもちろん、三井も凌駕する大財閥になってわが国経済を席巻しました。破たんしたとき支配・関係していた会社は約50社に及び、双日を初め、IHI,神戸製鋼、帝人、商船三井、サッポロビールなど、後継企業の多くが今日も産業界の中核をなして活動しています。
 鈴木商店に丁稚奉公にはいり、その後番頭として鈴木商店を世界に雄飛するコンツェルンに成長させた立役者が金子直吉です。金子直吉は高知で生まれ、生家が貧しかったため小学校にも上がれず、子どものときから紙くず拾いやいくつかの店の丁稚奉公をしていましたが、20歳のとき、青雲の志をもって神戸に出て鈴木商店にはいりました。8年後、店主が亡くなるのですが、直吉は卓越した企画力・交渉力をもとに、らつ腕をふるって鈴木商店を発展させていきます。政治家に接近して事業を拡大することもあったため、政商ともみなされ、また、米の買占めを行ない暴利をむさぼっているとの風評から、米騒動で本店が焼き打ちにあい、金子直吉の首には懸賞金がかけられていたといいます。

 その金子直吉の子息が、東大文学部長、日本倫理学会長などを務め、ヘーゲルの研究で知られる哲学・倫理学者の金子武蔵氏です。また、武蔵氏の夫人の父親は、「善の研究」で有名な哲学者・西田幾多郎です。
 情報システム学会の研究会でも、金子武蔵氏のことは今道友信先生によって次のように紹介されました。
 「金子武蔵先生という、倫理の大先生がおられた。これはまた野蛮な方で、当時そういう先生はおられなかったのですが、(夏の暑いときは)服を脱ぎ、とうとうランニングシャツ姿で講義をされた。これは問題になりました。風紀上よくないと。しかも倫理の先生ですから」
 金子直吉は服装に無頓着だったらしいですから、武蔵氏もこの点は父親譲りです。
 また、やはり情報システム学会の研究会で橋本典子先生は、今道先生の著書を引用して次のようにお話しされました。
 「現象学はヘーゲルにおいては、「精神の現象学」であり、絶対的精神が自己実現のために現象する過程とその自覚の論理的全体であった。以前は、「精神現象学」と訳されていた(岩波の「ヘーゲル全集」)。金子武蔵先生の訳である。それをもう1回訳したとき、「精神の現象学」になった。現在も「精神の現象学」で出ている。絶対的精神を最終の目標として、意識が弁証法的に展開していくというのが、ヘーゲルの精神の現象学である。下位のものが上位に上がっていって、最後の絶対的精神というのは、神の精神にほぼイコールである」

 作家の城山三郎氏は、猛烈ビジネスマンである金子直吉と哲学との関わりを、鈴木商店の盛衰を描いたノンフィクション小説「鼠」の中で、次のように記しています。

 ・・・次男武蔵は東大を出て、哲学を専攻。ヘーゲルの「精神現象学」を訳して出版した。
 「勉強して、わからぬものはない」との口癖の直吉は、その訳書を読むと言う。(中略)夏の暑い日、樹蔭へ長椅子を持ち出して、読みはじめた。学術用語も多く、難解な書である。それでも三十分ばかり頑張っていた。そのあげく、「硯を持って来い」と言い、
  屁化留(ヘーゲル)を諷す
 蝉なくや樹下の親爺は×××なり
 その翌年、武蔵は西田幾多郎の娘と結婚した。このとき、直吉と西田は、はじめて結婚式場で顔を合わせた。
 「西田です」
 「金子です」
 ただそれだけの挨拶を交わしただけ。以後、二度と会うことはなかった。嫌っていたわけではない。それぞれの世界に生きた二人に、それ以上の言葉は虚妄であった。
 (引用終わり。なお、俳句中に今日では適切とされない用語がありましたので、その部分引用を避けました。)

 ここではビジネスと哲学・倫理が、別個の世界として描かれています。おそらくそれは、金子直吉や西田幾多郎の偽らざる気持ちだったでしょうし、現在でも多くのビジネスマンは、哲学・倫理を自分とは無縁の世界と考えているのではないでしょうか。実際問題として最近伝えられている米国の金融機関の経営者やわが国の一部食品事業者、年金記録システム問題を起こした情報システム企業の経営者など、倫理観の欠如は目に余るものがあり、それによって社会的にも大きな被害が生じています。

 このような中、今年2月の初め、欧州訪問中の中国・温家宝首相がフィナンシャル・タイムズの記者に語った内容が注目を集めました。彼は出張の際に、いつもアダム・スミスの「道徳情操論」を携えていくというのです。「道徳情操論」は「国富論」と同じくらい重要な書物であり、2つの著作を通じてアダム・スミスは、「見えざる手」の1つは市場であるが、あと1つは道徳であると述べているということが、温家宝首相の口から語られたのです。
 このニュースは2つの点で多くの人を驚かせました。1つは中国の首相の愛読書が、自由主義経済学の始祖ともいうべきアダム・スミスの著書だったことです。また、あと1つはその著書が、よく知られている「国富論」ではなく「道徳情操論」だったことです。
 この記事を見たわが国のある高名なジャーナリストは、「アダム・スミスの「国富論」は読んだことがあるが、「道徳情操論」は知らなかった」と感心していました。しかし今から19年前、アダム・スミス没後200年に際して日本経済新聞は社説を掲げ、「道徳情操論」を引用して、スミスの自由主義が市場参加者のモラル(倫理規範の順守)を前提にしていることを述べています。さらに翌日(没後200年の当日)の夕刊では、編集委員の署名入りで「アダム・スミス賛」と題する記事を載せ、市場経済の下では「利己心を抑える理性と良心が必要」というスミスの言葉を繰り返しています。

 温家宝首相の談話が、米国資本主義の暴走を念頭においていることは明らかです。市場主義は、最初から自由主義とともに倫理規範の順守をセットで前提にしていたにもかかわらず、米国は片方だけを恣意的に適用し、他方の重要性を認識していなかったのではないかということです。
 現実にリーマンが破たんし、サブプライム問題において州や市政府レベルの当局者が、金融機関の行き過ぎた営業に警鐘を鳴らしていたにもかかわらず、その声が連邦政府によって無視されていたことが批判された後でもなお、ブッシュ大統領は自由主義の堅持を主張し、規制の強化をけん制していました。
温家宝首相の発言は、米国と同時に、わが国のかなりの数の経済人や学者、政治家にとっても耳の痛い指摘です。

 経済システムも1つの社会的な情報システムと見ることができます。情報システムのレイア構成については、一昨年(2007年)10月のメルマガで次のような試案を示しました。
   (1)理念(哲学・倫理)層
   (2)コントロール層
   (3)インテグレーション層
   (4)ソリューション層
   (5)モデリング層
   (6)言語(情報)層
   (7)物理層

 この試案では、理念(哲学・倫理)層をトップのレイアとして位置づけ、その実現のため、他のすべてのレイアに対して、コントロールが必要であることを示しています。
 情報システムの開発がモジュール化によって合理的に進められること、そのとき、凝集度が高く連結度が低い、すなわち独立性の高いモジュール化を行なうことが要件であることは、昨年11月号、本年2月号などのメルマガで述べました。

 ソフトウェア工学の教えるところによれば、モジュール化について、あと1つ重要な条件があります。それはモジュール化に際して、開モジュール構造ではなく、閉モジュール構造にしなければならないことです(片岡雅憲著「ソフトウェアモデリング」参照)。
 開モジュール構造では、各モジュールが同一レベルで展開していて、コントロールが次々に移っていきます。そのため各モジュールは、つねに他のモジュールを意識しなければならず、その分だけモジュール間の独立性が損なわれます。
 一方、閉モジュール構造は、1つの親モジュールに多数の子モジュールが接続する形になっていて、コントロールは親から子に移ったあと、必ず親にもどります。このため、子モジュール同士は他を意識する必要がなく、子モジュール間の独立性が確保されます。ただし、親モジュールが介在した分、オーバヘッドが付加されます。
 先月号で述べた社会主義体制は、閉モジュール化を徹底しようとして、オーバヘッドがあまりにも大きくなり破たんしてしまったのでしょう。一方、サブプライム問題では、自由放任主義の下、開モジュール化が行き過ぎて各モジュールの独立性が損なわれ、やはり共倒れになってしまったと考えられます。
 先月号の結論と同じになりますが、ソフトウェア工学的に見ても、オーバヘッドを減らすため各モジュール間のコントロールの移転は可能な限り許容しながら、全体の最適性を保つために、親モジュールによるコントロールが欠かせないことが分かります。

 ボールドウィンほか著(安藤春彦訳)「デザイン・ルール」においても、モジュール化の世界では、仕上げとなる統合・検証段階の重要性が増大し、そこからの、モジュール分割の仕方へのフィードバックの巧拙が、全体のパフォーマンスに直結すると述べられています。

 経済システムにおいて、コントロールモジュールとして位置づけられるのは、言うまでもなく立法・行政・司法の機構と中央銀行です。それでは、これら親モジュールのコントロールによって、何が達成されるべきなのでしょうか。
 第1には、もともと市場主義経済に必須の前提とされていた倫理規範の実現です。最近のわが国の例では、適合性原則にもとづく金融商品取引法の施行があります(メルマガ2008年2月号参照)。これによって、問題が生じたとき、商品購入者の自己責任だけではなく、金融機関の説明責任も厳しく問われることになりました。
 第2には、社会における経済格差と時系列的な経済の変動を少なくすることです。経済格差については、機会均等が実現されれば結果の不均等はインセンティブを与えるためにも許容されるのだという主張があります。しかし、結果に不均等があると、次の世代には確実に機会の不均等がもたらされますから、これは自己矛盾した考え方です。したがって、明らかに機会だけでなく、結果についても格差が少なくなるようなコントロールがなされるべきでしょう。
 このとき、先月号のメルマガで述べたように、結果の均等を単純に制度的につくってしまうと、今度はモラルハザードが起きてしまうことになります。ここでも、競争政策とセーフティネットの絶妙なバランスコントロールが必要です。

 わが国の田口玄一氏が提唱し、国際的にも著名なタグチメソッドでは、すぐれたシステム(製品)を開発するために、最初にノイズ(外部および内部の変動要因)の影響(バラツキ)を軽減し、次に目標の特性に合わせるという2段階設計の方針を採っています。特性を上げる前に、バラツキを小さくして、S/N比を高めることを第1に考えているのです。経済システムについても、同じことが言えないでしょうか。

 経済システムを改善するため、今後私たちはどのような政権選択をすべきか、日経ビジネスオンラインが興味深い調査結果を発表しています(3月13日「ビジネス・政策道場」)。
 日経ビジネスでは、政治家147人、読者2295人、経営者72人に経済政策に関する15の質問を行ない、その結果をクラスター分析して、分類された集団を、「セーフティネット整備」←→「民間競争」をX軸、「公共投資」←→「官の無駄排除」をY軸とする平面上に位置づけました。

 まず経営者の集団は、「民間競争・公共投資」平面で、原点からはやや離れたところに集まっています。読者で自民支持者は、民間競争を重視していて、Y軸的にはほぼ中立です。読者で民主支持者は、「民間競争・官の無駄排除」平面で、原点に比較的近いところにいます。
 政治家は党派を超えて大きく4つのグループに分けられます。最も特徴的なのは鳩山由紀夫氏など有力民主党議員が多く含まれる「安全網重視派」で、「セーフティネット整備・官の無駄排除」平面にあって、しかも原点から大きく離れています。経営者・読者からはY軸に関して反対側にあり、距離的に大きく離れているため、日経ビジネスでは、このグループは民意とかけ離れていて問題ありとしています。しかし民意といっても、経営者はともかく、あとは日経ビジネスオンラインの読者ですから、民意のすべてを代表しているかどうかは疑問です。
 塩崎恭久氏ら「競争重視成長派」と名づけられたグループには、自民・民主両党の議員が含まれます。経営者と同じ平面にあって、さらに原点に近いところに位置しています。
 あと2つのグループは、中川秀直氏らの「修正市場派」と鈴木宗男氏などの「大きな政府派」です。これら2つのグループは、与野党を含め、それぞれ3党以上の議員から構成されています。両グループ間の距離は近く、「セーフティネット整備・公共投資」平面で、原点からはかなり離れたところにあります。
 このように各党・各政治家の経済に対する考え方は、実に多様な形で分布をしていて、それぞれモジュール化の要件の充足度にもちがいがあります。

 政権を選択するための選挙の時期が近づいていますが、情報社会の今日、私たちは情報システムの観点、中でもモジュール化の観点から、各党や候補者の政策を評価していくことが肝要と思われます。

 この連載では、情報と情報システムの本質に関わるトピックを取り上げていきます。皆様からもご意見を頂ければ幸いです。