情報システム学会 メールマガジン 2008.1.30 No.02-10 [7]

連載 「大学教育最前線:第6回 九州産業大学」
「工学教育とアートの役割を考える」

九州産業大学・田村 幸子

はじめに

 「モノ作り大国・日本」と謳われながら,その一方で,学生の理工系離れと学力低下という状況はいまだ続いています。オンラインゲームには熱中できても,それが電子通信や機械工学,工業デザイン,アニメアートといった「技術と芸術の結晶」であることに関心を示し,学んでみようと思う若者は,はたしてどのくらいいるでしょうか。ますます高度化する学問の探究とは裏腹に,若者の理工系離れの背景には,文字離れや学ぶ意欲の低下,社会の成熟化に伴う職業感や就業意識の変化もあり,教育現場はいま,時代からの挑戦を突きつけられているようです。
 優れた技術者を生んできたわが国の工学教育・技術教育が,現代の若者をひきつけられない理由は何なのだろう。生まれたときからネット環境で育つこれからの若者たちに,情報システムは仮想空間に初めから「在るもの」ではなく,「創るもの」だという実感と必要性をどのように教育すればいいのだろう…こんな疑問を胸に,工学教育におけるアートの役割や,美の価値を導入する教育の可能性などを模索してきました。そして「模索の跡」を工学教育協会への論文にまとめました。ここでは,工学における美の価値追求の必要性を示唆いたしました。
 といっても私の専門分野はアートではありません。大学では生物学を学び,企業でシステムエンジニアの育成・教育部門にしばらく従事した後,現在,大学の商学部で「e-コマースとその情報システムの設計開発と運用」をテーマに教壇に立っています。ですが,かねてから設計をデザインと訳すことに,美的なフィーリングを感じてきました。しかしわずかこれだけの理由で,工学教育とアートについてまとめるには分不相応であることは十分承知しています。よって拙文はあくまで「体験的メモ」であることをまずお断りしておきます。

サイエンスとアートの共創

・1980年代後半の試み

 一般に,サイエンスといえば,自然科学を対象とする理工系分野を指しており,アートの語源であるアルスが「モノを作り出す技術」を意味していることから,絵画や彫刻,陶芸,写真等の芸術作品を生む分野はアートと呼ばれている。アートはそもそもその語源に技術と芸術を同居させている。

 近年,SF映画やアニメ,ゲーム等のコンピュータグラフィックス(以下,CG)が身近にあることで,「サイエンスとアートの共創」に違和感をおぼえる人はまずいないだろう。しかし,この現象や議論が盛んになったのは1980年代後半からで,CGの技術が高度になり,MITメディアラボの活動等が広く紹介されるようになった時期と重なっている。当時話題を呼んだ著作に次の7冊がある。

(1)「ヒューマンインタフェース」,ニコラス・ネグロポンテ著,吉成真由美訳,日本経済新聞社,1984
(2)「科学と芸術の間」,坂根厳夫,朝日新聞社,1986
(3)「サイエンスとアートの間に/フラクタル美学の誕生」,吉成真由美,新書館,1986
(4)「かたちと力/原子からレンブラントへ」,ルネ・ユイグ著,西野嘉章/寺田光徳訳,潮出版社,1988
(5)「脳の中の美術館」,布施英利,筑摩書房,1988
(6)「情報の歴史」,松岡正剛,NTT出版,1990
(7)「サイエンスとアートの共生」,高木隆司,丸善ライブラリー,1995

 上記(4)を除き,著者はいずれもコンピュータ・情報,脳科学,農学の研究者や科学ジャーナリストでアートの専門家という立場ではない。議論に使われた主な題材は,万能の天才・レオナルド・ダ・ヴィンチ,17世紀のオランダ絵画にカメラ・オブスキュラを導入したフェルメール,CGやカオス理論に影響を与えたマンデルブロートのフラクタル幾何学,サイエンスアートというジャンルを開いたエッシャーのだまし絵,脳の視覚の構造からアートを論じたもの,日本の伝統文化を情報工学の視点でみたもの等,幅広い試みが続いていた。
 唯一,アート評論家の立場で著された(4)の「かたちと力」は,当時,ルーブル美術館絵画部長で芸術学の世界的権威ルネ・ユイグが,ワシントンナショナルギャラリー客員教授時代の1967年から構想を練ったという700頁の大著である。これをなぜか私の師と仰ぐ方から賜ったことが,つい昨日のことのようである。そのワシントンで思わぬ出来事に遭遇した。

・ワシントンD.C.での体験

 1992年秋,ボストンのコンピュータミュージアムとMITメディアラボを取材するついでに,ワシントンD.C.に立ち寄った。まずナショナルギャラリーでは,フェルメールの「真珠を秤る女」に,ファインダーを覗いて描いたと思われる構図を確認し。「かたちと力」執筆のベースとなったにちがいない膨大な名画を終日鑑賞した。さらにその翌日,思いがけないチャンスが降ってきた。
 ワシントンにある米国科学アカデミー・NAS(National Academy of Sciences) は1863年に設立され,ノーベル賞受賞者200人が会員として名を連ねる科学の殿堂である。そこの入館許可を,なんと,ホテルのコンシェルジェが電話1本で取ってくれたのである。彼の早口英語に圧倒されている私に,彼は「わかったかな?」と日本語で訊いた。その一言に闘志を感じた次の瞬間,私はタクシーに乗り込んでいた。

 NASの入口で「ヘイ・アダムス」とホテルの名を告げただけで展示室に案内された。そこには,ギリシアの4大元素に始まる化学の歴史が30枚のパステル画になって壁面を飾っていた。化学者で詩人のローランド・ホフマンと画家ヴィヴィアン・トーレンスの「イメージされた化学」をテーマにした華麗なコラボレーションである。作品を丹念に眺めながら,これなら誰しも楽しく,元素記号を覚えられるにちがいないと思った。化学の原点・元素の誕生をかくも美しく優雅に表現するアイデアとセンスに,あらためて目から鱗が落ちる思いだった。
 事実,パステルで絵を描く場合,画面構成(設計)や画材の性質(物性)や水分の滲み(流体)などを無意識ではあっても計算にいれている。同様に陶芸や彫刻,デザインも写真も,数学や化学・物理学等の工学的知識に,美術的技法や美的感覚・経験等を重ねて創りだされるわけで,サイエンスとアートの共創をいまさら云々する必要はないのかもしれない。しかしまたもや驚くべき展示は続いていた。
 2枚の特大パネルが展示室から続く回廊に立て掛けられていた。左の1枚は。単純な縦横の線が特徴のモンドリアンの代表作「ブロードウェイ・ブギウギ」である。右側も構図からして彼のものに違いないと思いきや,なんと,AT&Tの半導体・CRISPの回路図が彩色され「作品」として並べられていたのである。回路設計という工学の粋を集めた繊細な仕事を,モダンアートに昇華することで見えてくる新しい世界がそこにあった。それまでサイエンスには,無色透明の冷たい表情がつきまとっていることを否めなかった。しかし,サイエンスにアートが加わることで,彩りと深みが加わり,親しさや優しさ,和み,未知の世界への期待すら感じさせる。美しさは人の心に感動と高揚感を喚起し何よりも見て触れて楽しい。ここにアートの役割と美の価値があることを,この展示は教えてくれていた。

 NASで最後に観たもの,それは1階ホールの天蓋に彫られたレリーフである。そこにはギリシア神話の有名なエピソード,プロメテウスが天上界の火を人類に与えた瞬間,すなわちサイエンスとアート誕生の一瞬が描かれていた。キャプションには「その火によって人類は飢えと寒さをしのぐ智恵を,技術を,芸術を,そして文明を産み出すことができた(要旨)」と記されていた。

工学教育のめざすものとアート

・工学/工学教育とは

 国立8大学の工学部を中心とする「工学における教育プログラムに関する検討委員会」が1998年にまとめた,工学およびその教育に関する認識は次のとおりである。
 「工学とは数学と自然科学を基礎とし,時には人文社会科学の知見を用いて,公共の安全,健康,福祉のために有用な事物や快適な環境を構築することを目的とする学問である。その目的を達成するために,新知識を求め統合し応用するばかりでなく,対象の広がりに応じてその領域を拡大し,周辺分野の学問と連携を保ちながら発展する。また,工学は地球規模での人間の福祉に対する寄与によってその価値が判断される」としている。さらにフリー百科事典・wikipediaの「工学とは」の項には,理学と工学の違いについて「理学が思想・信条を理論内に取り込まない傾向にあるのに対し,工学では設計思想が重要であり,電気学会や土木学会では信条規定が定められている」との記述がある。
 これらをまとめると,工学および工学教育の学問的基盤は「数学と自然科学およびその周辺分野」であり,その目的と実践は「安全・健康・福祉のための有用な事物と快適な環境の構築」にあり,その方法論としての「設計思想」を重視するということになろうか。とりわけ工学の特質を端的に表しているのが,「有用な事物と快適な環境の構築」である。

・有用性と美の価値

 社会の進展と産業の発達にとって,有用性の重視に疑問をはさむ余地はない。しかしながら有用性は「有用→役に立つ・便利で効率がいい→経済性の追求」という傾向を生みやすい。このことが,一方で安全・健康・福祉という善なる目的を掲げながら,実際には地球環境をなおざりにして利潤追求に走った結果の拝金主義という現代の風潮につながっているとはいえないだろうか。こうした矛盾が,若者の鋭敏な目にはどのように映っているのだろうか。
 「有用な事物」はむろん重要であるが,今後は「快適な環境」に重きをおき,有用性と快適性を調和させた設計思想がさらに求められてこよう。「快適→心地よい・優しい・楽しい→喜びを生む」という考えは感動や共感・信頼感にも発展するし,先に述べたアートの役割や美の価値の追求に通じるものである。感性工学という領域もあるが,快適さや美の価値といった主観が左右する科学をどのように工学全般に取り込むかは、いまだ課題として残されているように思う。これらを教育実践に応用できれば,結果として理工系離れを防げるのかもしれない。

 少々横道にそれるが,つい先日,最新のクルマ事情を取材したTV番組をみた。各社,新車開発にしのぎを削るなかでH社の1台は際立っていた。動物のカバを連想するユーモラスなフロントマスク,車体には触れるとプヨプヨの新素材を使い,おまけに肌色である。接触・衝突時の衝撃を最小限に食い止める安全性と快適性を指向し,これまでとは異なる設計思想をめざしたとのこと。効率性やカッコよさを売りにした従来のクルマとは,明らかに一線を画している。新たな価値を提示したクルマといえばいいのだろうか。この傾向はロボットでも同じことがいえよう。

 「快適で環境に優しい」は,いまや社会全体のトレンドである。産業界,なかんずく従来型の製造業にとっては大きな課題であるが,そこに人材を送り出す大学にとっても,21世紀型教育へステップアップする好機である。これを機に,美の価値を再発見し,工学教育に導入することを提案したい。
 「美」という文字の象形は,神に献上する羊を人が頭上に奉げ持つ姿であるという。「かたち」としての美には,見えない「力」に畏敬の念を抱く人間としての素直な気持ち,安全や平和への普遍的な願い・希望・祈りがこめられているといえば言いすぎだろうか。時代が大学に突きつける試練に向かうには,手作りの教育を通して培う人間力をもってするしかないと思う。
 科学プロデューサ・米村でんじろう氏は,小学校では理科の実験が自由にできなくなったことを危惧し,理科の面白さや知的興奮を伝えたいとユニークな科学ショーを全国展開している。また欧米の主要美術館では,子供向けの鑑賞を指導する専門家が配置されていると聞く。科学者の卵が絵画を学び,芸術家志望の学生が科学論文を読む・・・こんな教育/訓練を通じて共通の理解が広がれば,さらに斬新な社会が出現するのではないだろうか。

(2008.1.6)

<著者プロフィール>
九州大学理学部卒。(株)日立製作所コンピュータ事業部,福岡女子短期大学助教授を経て,現在,九州産業大学商学部教授。1998-99年米国コロンビア大学ビジネススクールに客員研究員として在籍。
情報処理学会,情報システム学会,AIS会員ほか   tamura■ip.kyusan-u.ac.jp
田村研究室e-ジャーナル「たむたむ」   http://www.ip.kyusan-u.ac.jp/J/tamura
e-マーケティング実験サイト「よかとーく」      http://www.yoka-yoka.com